続・のあろぐ

ゲーム、漫画、アニメで社会を豊かにしたいNoahの個人ブログ

じゃあどんなのだったら価値ある記事なのよという話

世の中大変な事になっている。

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もともとはWelqというメディアで、医療系の記事に医者が監修してないし信憑性が全くない記事をあげるのはけしからん、という話だったはずだ。

しかし、いつの間にやら大延焼を起こしていて、安くライターを買い叩いて人様のメディアからパクった情報をさも自分のメディアのオリジナルかのように流して、検索エンジンの上位を取る技術だけに長けているからそういうところでPVを稼いでけしからん、というところまで来ている。

というか、更にいうとどうやら話はそれで終わりそうにないっぽい感じが出てきているが、その点は続報を待ちたい、いわゆるキュレーションメディア問題。

ここではそういう話をするのはほぼ無益なので、逆にウェブ空間に上がる記事として、どんな記事が世の中に価値を持つ記事なのかということを考察してみたいと思う。

1.新しい知識や情報を提供する

これは文句なしに強い記事だ。世の中に今までなかったものを提供する行為だ。ニュース記事や、論文などがそれにあたる。ただ、実際には実は「一番最初」ではなくても良い。なぜなら、ネットとリアルには違いがあって、「リアルでは起こっていることなのにまだネットで情報がないこと」というものがありうるからだ。例えば火事が起きていて、そのリアルな現場では何かが起こっているのに、どこで何が起こっているか、どの店が燃えているのか、という情報がなかったり、電車が遅延しているというリアルな情報が、ネットにはなかったりということが起こりうる。こうした「リアルに起こっているがネットにない情報」をもちろん正確さをもって提供することは非常に有用だ。

 

2.生の情報を提供する

「logmi」というウェブメディアがある。今回のDeNA記者会見でも大活躍していたが、講演や会見などの音声情報を単に文字情報として提供している。こうしたネット情報にも一定の価値が認められる。音声で聞くより文字で読んだほうが圧倒的に早いからだ。

また、生の情報という意味では、インタビューなども価値がある。インタビューに価値があるのは、生の情報で妄想ではないことが確定しているからだ。ただし、インタビューする人かインタビューされる人、あるいはその両方にバリューがないと相応のバリューしか生み出さない。

 

3.これまでになかった切り口を提供する

今まであった情報から、「その視点はなかったわ」という指摘をすることができる書き手が極稀に存在する。往々にして変人である場合もあるが、そういった人は一部からカルト的な人気を持っていたりする。

まあ、そこまでではないにしても、例えば映画やゲームなどの批評などもその一種でありうる。自分の過去の経験や知識などから、ある対象物を分解し、整理するという試みは一定の価値を持つ。そうか、そういう見方もあったのか、という形で読者に「なるほど」感を与えることができる、という記事は大変に意味がある。「読み物として面白かった」などという感想が出てくるのもこの類の情報であろう。

 

4.難しいものをわかりやすく噛み砕く

いわゆる池上彰氏がやっているような情報スタイルである。余談だが、池上氏はいくつもの新聞を購読し、毎日ちゃんと目を通しているという。こうした情報摂取から、ある対象読者(あるいは視聴者)に対し、その人の知的レベルや知識レベルに合わせた言い方や持っていきかたで難しい話題をちゃんと噛み砕くのである。

最近のワイドショーとかは、こうした技術が非常にうまくなってきていると感じる。というか、こういうのをある種本来的な「キュレーター」というのではないか、とも思う。

特に個人的に有用だと思うのは、科学系とか経済系とか法律系とかの論文を素人にもわかりやすく噛み砕いてくれたような記事で、もちろんこういう場合に真の意味での引用は必要だと思うが、大変有用である。

 

5.他の言語で書いてあるものを翻訳する

これはかなり取扱い注意なのだが、英語だけでなく例えばロシア語とかアラビア語で書いてあるものを日本語に翻訳してくれて読めたりするととても嬉しかったりする。念のため書いておくと、単に英語で書いてある記事を書き手の許可もなく日本語に訳して公開するのは、これはパクリと同じである。

 

こうした記事が非常に役立つ。

ちなみに、別の切り口として、「質問に答える記事」というのは非常に有用であり、それは「5W2H」のフレームワークで漏れなく整理できるのだが、これだけ書けば十分かと思うので特にこちらは言及しない。

あともう一つ言っておくと、いちいちこれという言及はしないが、マナーを守った記事を書くのは当たり前のことであるので一応付記しておく。

 

ウェブでメシを食うということ

ウェブでメシを食うということ

 

 

いいもの食べていいうんこを出す人生が送りたいものだと言う話

人間の人生は基本的にうんこだと思うんですよ。

いや、人生=うんこなんじゃなくて、出したうんこの良さとか満足感って大事だって話なのですけど。

ここでいううんことは「アウトプット」です。

いいうんこ、すなわちアウトプットとは何かと言うのは本当に人によるので、自分自身で満足できるうんこであればいいんだと思っているんですけど、上質のうんこを出すと、そのうんこには人が集まって来てくれるんですね。

例えばレオナルド・ダ・ヴィンチは、モナリザという素晴らしいうんこを出しました。

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このうんこは、200年以上の間ルーブル美術館という人のうんこをたくさん飾ってあるところに展示されており、年間500万人もの人がうんこを観に訪れます。

芸術が一番うんこ性が高くて、なんていうか自分の中では精神的に苦しんだり、悩んだり、または楽しんだりした時に、その発露として出したうんこはゴールデンうんこだと思っているわけですよね。

基本的にうんこを出すということは気持ちのよいことで、それまで色々モヤモヤしていたものが全部うんこに集約されて全部出しきったときはもうものすごい開放感がある、という仕組みになっています。じゃないと、みんなうんこを出したいと思わないですから。

さて、じゃあこういったうんこを出すとき、いいうんこを出すためにはどうすればいいのか、という問題があります。

個人的には、やっぱりいいうんこを出すためにはいいもの食べてないと出すことはできないと思うんですよね。

ここでいういいものとはインプットです。

いいもの、というのもこれもまた人によるので、一概に何とも言えないのですが、フランス料理ばっかり食ってればフランスっぽいうんこが出るはずなんですね。多分。

だから、自分でこれはと思う上質のものばかり食べている人はやっぱりうんこも素敵なうんこが出ますので、そのうんこにちゃんと人が集まってきてくれます。

もっと言えば、そのうんこを食べた人がまたいいうんこを出してくれるという仕組みになっていたりしますよね。

本とか読んでても思うのですが、ああこの本は内容が薄い、とか思うときは、いい感想はかけないんですよね。映画でもなんでもそうで、やっぱり感動するほどのうんこを食べた人がまたいいうんこを出せる仕組みになっているのではないかなあと。

あと、消化力も重要ですよね。オリジナリティを出すためには、やっぱりちゃんと食べたものを消化しないと、そのまんま出てきたりなんかして。

そんなわけで、いいもの食べてちゃんと消化して、いいうんこを出す人生が送りたいものですね。

以上です。わたしのうんこたるこの文章を読んでくれてありがとうございました。

「この世界の片隅に」を観てきた(ネタバレなし)

この世界の片隅に」を観てきました。テアトル新宿にて。

上映映画館はこちらから。だんだん拡大しているとはいえ、まだまだ多いとはいえないです。

eiga.com

新宿ではテアトル新宿のみ。日曜、18時25分上映のものは17時45分ぐらいにいったらすでに満席で、立ち見席しかない状態。自分は予約していたので大丈夫でしたが、予約にしても金曜日の昼には8割ぐらい埋まっていました。まあ、要するに大人気です。

テアトル新宿ではたんぽぽ茶が飲めます。300円。森永のミルクキャラメルがつきます。この辺は微妙にストーリーと関係してますが、まあ微妙にという程度です。

で、映画の感想なのですが、うーんなるほどという感じです。これはいい。大衆向けに寄りすぎてはいない作品で、でも年配の方も含めて笑ったり泣いたりできる作品です。

戦争の時代を題材としていて、その時代に生きるすずという少女を中心に物語が描かれます。とてもその時代の描写がリアルです。

一番良いなと思ったのは、So What?の不在です。戦争を題材にすると、なんかこう、主義主張みたいなものが入ることが非常に多いような気がしています。不必要に「いいタイミング」で人が死んだりとか、演出で泣かせたりするみたいなのとか、そういう演出が兎角戦争を題材としたフィクションでは多いのですが、『この世界の片隅に』では、そのあたりが非常に素朴に描かれていて、「だからこうだ」というものを押し付けてきたりしない。このあたりは非常に配慮ある描かれ方だと思います。

ところで、私の祖母はもう90近いのですが、戦争経験者です。祖母の母は、戦争で亡くなりました。しかも、祖母の誕生日に空襲で亡くなったと聞いています。祖母がまだ10代の頃です。

祖母は時々最近、戦争の時どんな感じだったかというのを私に聞かせてくれるのですが、それまでは「つらすぎて、言えなかった。思い出したくなかった」と言っていました。それほどまでに、辛いのですが、それでも誰かに伝えておかないといけないという危機感のような思いから色々言っていくことにしたそうなのです。

そういう人から見ると、例えば祖母から見るとこの映画はどういう受け取り方をするんだろうか、と思いながら、『この世界の片隅に』自体は私の目から見れば非常に名作だと思ったのですが、祖母からしたらどうだろう、と思いながら映画を観ていました。

戦争を体験していない人にとっては、この話は非常にリアリティをもったアート、表現作品として観られるだろうと思うのですが、祖母にとっては、リアリティを持ちすぎていて、観ていて辛いかもしれない。いくら、すずが明るい性格として描かれているとはいえ、この話はあまりに、同時代に生きるひとにとっては。

やや複雑な思いでしたが、祖母がもし興味を示すようであれば、観てもらって感想を聞きたいなと思っています。

 

 

この世界の片隅に 中 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 中 (アクションコミックス)

 

 

この世界の片隅に 下 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 下 (アクションコミックス)

 

 

この世界の片隅に 劇場アニメ公式ガイドブック

この世界の片隅に 劇場アニメ公式ガイドブック

 

 

「さみしい」をなくすということ

ブログを毎日書くチャレンジ、10月の途中から参加させていただいてはや10/31となりました。本日は諸事情でニューヨークに来ておりますのでアメリカ時間では10/30となりますが、更新します。

noahp.hatenablog.com

ちょうど1年前、「さみしい」ということが人間共通の心理ではないか、ということについて書きました。少し見返してみて、この時思っていたことの多くは今でもそうだなあ、と思います。

人は、その時抱えている想いを完全には表現することができません。だから、人と人とは、個体が別である以上、究極には分かり合えない存在です。しかし、コミュニケーションをとったり、何かを媒介につながることで、どこか共感したりすることがある。だからこそ、人生にも色味が出てくるのだと思っています。

自分がゲームが好きなのは、ゲームを通じて人とつながってきたからだと思われます。小さいときに親と、または学校の友人と、ネットゲームでは顔も知らない仲間たちと……。いつでも、ゲームは人とつながりを持てるきっかけを作ってくれました。ゲームは「さみしい」を癒すものなのです。

この世には、「さみしい」を癒すためのものがたくさんあります。1年前のブログで引用した荻原朔太郎は詩を挙げました。今こうして書いているブログも、これを見た人と思いを共有できるかもしれないという意味で、「さみしい」を癒すということです。音楽や芸術、ゲーム、SNS、メッセージアプリ、自分を表現するということや、それをだれかと共有するということは、「さみしい」を癒してくれます。

「さみしい」を抱えた人がまだまだ沢山います。ひとりぼっちでさみしい人。人と遊んでいても、どこか心がさみしいかもしれません。こうした「さみしさ」を、この世の中から少しでも無くすということは、私の人生の中で非常に大きなミッションだと思っています。今後、自分の手掛けた製品やサービスで、どこかの誰かがさみしくなくなるかもしれません。もし、そういうことがあったら、感動で心が熱くなれると思います。ぜひそういう体験をしたいと思います。

技術はどんどん進歩しています。それによって、人々の「さみしい」が少しでも癒えるようなことが増えてきています。FacebookやLINEなどもその一つです。AIによって今後も新しいなにかが現れるかもしれません。音楽や芸術、ゲームも、そうであり続けています。願わくばその流れが加速し、伝わらなくてもどかしい思い、わかってほしい思いを抱えている人が満足するような世の中を作れればな、という風に思っています。

若干気になってる書籍「エフェクチュエーション」

最近は起業家研究というのが話題だそうで、自分も興味をもってこのあたりのことを見ています。そこで、気になっている本がこの『エフェクチュエーション』です。

エフェクチュエーション (【碩学舎/碩学叢書】)

エフェクチュエーション (【碩学舎/碩学叢書】)

 

 まだ読む前なので、大まかにしかわかっていませんが、不確定な状況下で、起業家がどのように、どんな事業を推進していくのか、ということをプロセスとして研究している本のようです。

エフェクチュエーションの公式サイトというのがあって、それに色々とまとまっているようです。

Effectuation: Society for Effectual Action

従来の理論では、市場分析を行い、正しい方法でマーケティングを行うというのが重要でしたが、このエフェクチュエーションでは、そもそも起業家が対象とするのは未知の市場であり、どんな可能性が眠っているのかがわからない。したがって、すでにある市場を見て合理的な判断をするのではなく、もっと創造的な手法をとる必要があるというのが、この本の主題のようです。

まだ読んでない段階なので疑問とかをここに書いておきたいのですが、そもそも、起業家のプロセスを明確に示せるもので、合理的なフレームワークと言えるかどうか、見てみたいと思います。全体として単なるマーケティング理論にとどまらず、もう少し大きな目線で見ている内容のように思うので、全体的な構成の把握なども行いたいと思っています。

エフェクチュエーション で関連のウェブサイトを調べると、以下のようなサイトが出てきます。

http://www.mcp-jp.com/marke_blog/%E3%82%A8%E3%83%95%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%81%A7%E6%96%B0%E3%81%9F%E3%81%AA%E3%83%93%E3%82%B8%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3/

 

president.jp

不確実性の高い現場では、とにかく何が起こるかわかりません。このあたりのことは、ゲーム業界にもいえることで、任天堂の故・岩田社長も常々、ゲーム業界は先に何が待っているかわからないから覚悟が必要だというようなことを仰っていました。こういった業界で、既存の考えにとらわれるようなマーケティング手法は、確かに若干不要といってもおかしくはないのかもしれません。とにかく読んでみて、その結果をまたシェアしようと思っています。

労働市場の改善が働き方のシフトへつながっている

こんにちは。最近働き方改革の話が盛り上がってるのって、みなさんうっぷんを抱えてるからなんじゃないのかなと思っています。

今日のブログ更新では、また働き方の話をしたいと思います。

世の中「Give&Take」で成り立っている

言うまでもないことかもしれませんが、世の中はGive&Takeで成り立っています。誰かが課題を抱え、それを解決するまでのプロセスの中に、他の人からの支えがあるからこそ社会は協力で成り立っています。課題感があって、Give&Takeの構造があるからこそビジネスが成り立って経済が回っていると言えます。

課題→共有→解決のステップで社会は回っている - 続・のあろぐ

日本の働き方における問題点の1つは、このGive&Takeが崩壊していること、アンバランスなこと、ではないかなと思っています。

価値観の変化は労働市場の変化によるもの

一口にアンバランスさと言っても、おそらく、様々な視点があります。立場によっても全く問題意識が違うでしょう。例えば、いわゆる大企業で働いている場合と、中小零細企業で働いている人では抱えている課題感も、その解決方法も違うと思います。

ただ1つ言えるのは、労働市場が変化しているので、それに合わせて今までの働き方の常識というのも変わってきているのだと思います。

例えば、有効求人倍率は1.38倍と、実に25年ぶりの水準となっています。

有効求人倍率、9月は1.38倍に上昇 25年1カ月ぶり高水準 :日本経済新聞

有効求人倍率とは、簡単に言えば職を探している人一人当たり、何件の求人があるのかという指標です。1人につき、1.38件の求人があるということになります。25年前といえば、1991年。ちょうどバブル崩壊の年です。つまりバブル期のピークとなっているぐらいの状態が、労働市場に訪れています。

しかし、別に景気のほうがそれほど過熱しているという様子はありません。

vdata.nikkei.com

完全に働き方自体が変わってきていて、会社を移るということは当たり前、終身雇用制度が終わっていることで、人材の流動性が上がってきているという観点が一番強そうです。

up or out は片側の論理

ここへきて、有効求人倍率の意味合いはバブル期とはだいぶ違ってきているといえるかもしれません。なぜなら、かつて、バブル期は大企業の人々は「辞めないでその会社1社に勤め上げる」のが標準的であったので、雇用市場に職を探している人ということで出てくるケースはそこまで多くなかったと思われます。しかし、今では大企業の人材でも普通に雇用市場に出てきて、優秀な人であればもっといい条件で雇用されていくわけですから、労働市場に参加する人のタイプは全然違ってきていると思います。

そうなってくると、雇用者側は「その会社が改善しなければ辞めてしまおう」ということで、労働環境なども含めて、条件の悪い会社には人が集まらなくなり、淘汰されていくということになります。"up or out"ならぬ、"improve or out(改善しないならやめます)"が成り立つということになります。これは、極めて健全な状況といえるのではないでしょうか。今までのup or outが日本ではいびつな構造であったのは、企業に辞めさせられると次がない、という構造ゆえ、up or outが雇用側の論理だけになっていたからで、こうなってくるとimprove or outが機能するようになってくると思います。

もっとも、病気になったりケガをしたり、などで働けなくなった人への一定の保証が、今までよりもっと重要になってきます。しかし、そこをきちんとしたうえで、こういった構造になってくると、腐った会社はどんどん改善するか社員が集まらなくなるか、ということになってくると思います。

こうした構造変化は、有効求人倍率の上昇、すなわち、企業がもっと人を雇いたいと思うほどビジネスが活気づいているということをも示しています。今後、さらに景気が緩やかな回復をたどり、働き方もさらに変わってくる、かもしれませんね。

「肚落ちするか」という視点

昨日、soup stock tokyoなどを運営するスマイルズ社長の遠山正道氏のインタビューを読む機会がありました。

そこで語られていたことで印象的だったのが、「ビジネスの確信は収支計算ではなく肚落ち」ということでした。

どうしてもビジネスというと、収支計算の視点が出てきてしまいます。売上はどうなのか、コストはどうか、どれぐらい持続性があるのか。

それで黒字がたくさん出たからといって、肚落ちしなければビジネスに確信が持てることはないのかもしれません。

私は、言い換えれば「納得感」が大事なのかなと思いました。自分の中で納得して進んでいくという姿勢は、あくせく目の前の目標にだけ向かって進んでいくとどうしてもなくなりがちだったり、考える時間すら持てなかったりするものだと思うのです。その部分が曖昧になっていると、そのうち納得できない部分がムクムクと膨れ上がってくるかもしれません。あれ、今何をやってるんだっけ。これは何のためにやるんだったっけ。そうなった時に結局納得感が大事になってきてしまいます。

納得感をどう得るかということは人によって全く違う部分があるかと思います。それこそ収支計算だけで納得できるかもしれないし、人とのコミュニケーションなどを経て直感的に納得をする人もいます。こうして得た納得感をもって仕事をすると、モチベーションもわきますし、おそらくグイグイと仕事を前に進めていくことができるんだと思います。

ただ、この納得感を得るためにはある程度の余裕も必要だと感じます。先ほども書きましたが、日々の仕事に追われすぎていると、なんだかよくわからなくなってきます。時間だけでなく、お金がなくなれば働かないといけないので、お金がないなら「納得感が云々」とか言ってられないでしょう。なので、納得感をもって働くというのは最高の贅沢品なのかもしれません。

こう考えて、日本社会に即して考えてみると、いま大学生が就職をする時にどれだけ肚落ちして決めているのだろうと。大学時代は時間的には結構余裕もあるはずなので、納得感を醸成する時間はあると思いがちですが、別に将来の職業選択について真剣に悩む、というような機会があまりなければ納得感も醸成されません。

それから、会社に就職する場合はその会社が十分な情報提供を行っているかという観点もあります。働いてみて初めてわかることもあるので、大学生は働きたい会社でインターンやアルバイトをしてみるべきだと思うのですが、なかなか門戸は狭く、体験の機会がないまま就職をすることになります。

こうしたことが積み重なり、マクロで見た時にほとんどの人が「肚落ち」しないままに仕事をしているのだと思います。だからこそ長時間労働の是正だったり働き方ということが問題になってしまうのではないかと。いまの働き方や仕事の選び方に、全く肚落ちがないのでしょう。