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続・のあろぐ

ゲーム、漫画、アニメで社会を豊かにしたいNoahの個人ブログ

「さみしい」という真理

世の中で「真理である」「真理であろう」と思われることは、一体どれぐらいあるのだろうか。

わたしには、世の中でまことしやかに語られている「真理」というのは、ほとんどがじつは「常識」とか「価値観」といったもの、言い換えれば「所詮その程度のもの」という風に思える。

例えば「定年まで一つの会社が確実に雇ってくれる」などという「終身雇用制」なんていうのは、もう崩れ去っていることからもわかるように、「真理」ではなかった。過去の「常識」あるいは「価値観」の最たる例だと思う。

本当に真理といえるものなど、ほとんどないと言って良いんじゃないか。

では、その数少ない真理とはなんだろう、と考えてみると、まず思いつくのが「人はいつか死ぬ」ということだ。確かに、医療は発達してきており、平均寿命は伸びてきている。もしかしたら今生きている人の中には死なない人がいる可能性もあるが、まあ、まずないでしょう、と。このブログを読んでいるあなたもいずれ死ぬし、書いているわたしも当然いずれ死ぬ。とりあえず、確度の高い真理ということにしておいてほしい。

「さみしい」という真理

もうひとつ、わたしがひとがひととして生きるうえで、とても重要だと思う真理がある。それは、「さみしい」という真理だ。

「『さみしい』が真理なんて、おかしいのではないか」と思うひともいるかもしれない。いや、それでもやっぱり、「さみしい」というのはひとつの真理なはずだ、と思う。

「自分は寂しくなんかない、街を歩いているあの人も、会社の同僚も、学校のあの人も、ちっとも寂しそうに見えないではないか」と思うかもしれない。確かに、寂しさを感じないで、気づかないで生きているひとは結構いると思う。しかし、わたしが言っている「さみしい」というのはそういうことではない。客観的に見ればみんなさみしいのだ。

言い換えれば、「人は完全に分かり合うことは出来ない、理解することはできない」「人の感情をそのまま感じてあげることは、できない」ということ。これを想ったとき、「さみしい」でなくて何なのか。

人と人とは絶対に、完全には、理解しあうことはできない。わたしは、生まれてこの方このことが、とても「さみしかった」。ただ、どうして「さみしい」のかということが、今までことばにできなかった。ただただ、もどかしい思いを抱えていて、じぶんが「さみしい」理由はおろか、そもそも自分が「さみしいのだ」ということすら、理解できていなかった。

しかし、この前こんなブログの記事をみつけて、ああ、そう、これこれ、と思った。そうか、自分はさみしかったから生きてこれたんだ、と思った。

ameblo.jp

ここでも引用されている萩原朔太郎のデビュー作『月に吠える』。改めて見てみると、本当に頷けることが書いてある。

『どういふわけでうれしい?』といふ質問に対して人は容易にその理由を説明することができる。けれども『どういふ工合にうれしい』といふ問に対しては何人ぴともたやすくその心理を説明することは出来ない。
 思ふに人間の感情といふものは、極めて単純であつて、同時に極めて複雑したものである。極めて普遍性のものであつて、同時に極めて個性的な特異なものである。
 どんな場合にも、人が自己の感情を完全に表現しようと思つたら、それは容易のわざではない。この場合には言葉は何の役にもたたない。そこには音楽と詩があるばかりである。

(中略) 人間は一人一人にちがつた肉体と、ちがつた神経とをもつて居る。我のかなしみは彼のかなしみではない。彼のよろこびは我のよろこびではない。
 人は一人一人では、いつも永久に、永久に、恐ろしい孤独である。
 原始以来、神は幾億万人といふ人間を造つた。けれども全く同じ顔の人間を、決して二人とは造りはしなかつた。人はだれでも単位で生れて、永久に単位で死ななければならない。

(中略)私のこの肉体とこの感情とは、もちろん世界中で私一人しか所有して居ない。またそれを完全に理解してゐる人も一人しかない。これは極めて極めて特異な性質をもつたものである。けれども、それはまた同時に、世界中の何ぴとにも共通なものでなければならない。この特異にして共通なる個々の感情の焦点に、詩歌のほんとの『よろこび』と『秘密性』とが存在するのだ。この道理をはなれて、私は自ら詩を作る意義を知らない。

萩原朔太郎がこの中で言っているのは、まさに「さみしい」という真理だ、と思う。わたしが思っていることはあなたには100%は理解できない。どんなにことばを尽くしても、完全には理解できない。逆に、あなたが思っていることは、残念ながらわたしが100%理解するのは無理なのだ。それは、とても苦しくて、さみしいことだ。

萩原朔太郎は、そこにある「さみしい」というということが、人間に共通なものであると、むしろ希望を見出しているように見える。それで彼は詩を書いたのだ。

さみしさという原動力

それでも、わたし達は、さみしい。さみしいから、理解してもらいたくて何らかの手段を使わざるを得ない。もしくは、理解してもらえなくてもいいように、何かをしてまぎらわせる。

そうやって無駄なあがきをして、わたし達は生きるほかない。

わたしは、どのようにあがいているのか。わたしはことばを使った。何かを書いたり表現したり、日記みたいなものを書いてネットに上げたりすると、拙い文章でも何人かは良いと言ってくれたり、何か反応を返してくれたりした。それは、100%にはなり得ないにせよ、じぶんのことを少しでも分かってくれたひとがいた、ということだ。それがうれしい。ことばにならない、正確にいえばことばに載せてもきっと100%は理解してもらえないことが薄々わかっていながらも、それでもことばで相手に伝えた。さみしさを少しでも薄めるためだ。

人と話していてもさみしさは幾分まぎれた。自分の意見を言えば、相手が何か意見を返してくれた。意見が返ってきたからうれしいのではなく、意見が返ってくるということは、相手が自分のことを幾分なりとも理解してくれたということだ。いずれにしても、さみしさが少しは埋まって、それでうれしいのだ。

逆に、あまり理解してもらえないと思うコメントが返ってくれば、悲しかった。悲しい時は、もっとがんばろう、理解してもらえるためにことばをもっと磨こう、と思えるときもあるし、もう、やっぱり理解してもらえないのだ、と諦めることもあった。けれど、結局わたしは、前者を選んで生きてきたのだと思う。人によっては、早々にことばはあきらめて、音楽などを選んだりするかもしれない。

だれもがさみしさに何らかの解決手段を見出して生きているのだと思える。わたしは拙いことばしか使えないし、ことばは時に無力で、誤解されれば有害にすらなることがある。そういうわけで、わたしは、音楽だとかの「ことばではない芸術」でさみしさを表現できたり、まぎらわせたりできる人のことをとてもうらやましく思う。

理解してもらいたいと思う人を理解したい

その解決手段はひとによって違う。先ほども述べたように、「人に100%理解してもらう」ということは絶対に無理である以上、「理解してもらえなくても気にしないようにする」ことを磨く人もいる。言い換えれば、「さみしさに対する防御力」を磨くタイプだ。さみしいということを極力感じないように、いろんなことをやって生きていけば、さみしさという真理からは気分的には遠ざかることができる。自分がさみしいのだということにも気づかなくて済むようになるから、妥当だとは思う。

だが、それでもわたしは、ひとに理解してもらうことでさみしさを解決したいのだ。理解してもらうためにことばや芸術を磨く行為は、「さみしさに対する攻撃力」を磨くタイプだといえる。たしかに、100%は理解できないかもしれない。だが、100%に限りなく近づいていくことはできる。だからわたしはあきらめずに、理解してもらおうとあがく。

わたしは、さみしさに対する防御力を磨いていくばかりで、ちっとも理解してもらおうとせず、従って理解しようともしない人たちは、あまり好きになれないかもしれない。そういう人のなかで、他者とかかわって生きているひとたちは、一般的には「メンタルが強い」と言われるひとたちだ。しかしかれらは、殻に閉じこもることを選んだ。そういう意味では、完全には理解しえないということから目を背けたという意味で、実は弱いのかもしれない。真理に抗おうとしない姿勢は、あたかも死を受け容れるひとのようで、潔いともいえる。しかしそれでも、むしろ、理解してもらいたいと思って日々懸命に生きているひとのことを尊重して、理解したいとわたしは思うのだ。

さみしさは、人間が人間として生きるかぎり、誰もが持っている「傷」だ。その癒やしの方法や傷の程度は、ひとによって違うかもしれない。わたしは、その傷を癒やしあって生きていきたい。