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続・のあろぐ

ゲーム、漫画、アニメで社会を豊かにしたいNoahの個人ブログ

【駄文】新年に思うこと

抱負 直感で書いた文章

2015年が終わり、2016年がやってきた。今年は申年だそうで。

こうしてはてなブログの編集画面を起動して、何を打とうか考えつつつらつらとキーボードを叩いている。気づけば1月1日ではなく、すでに1月2日になってしまっている。

3が日中には更新しよう、と決めたからこうしてブログをなんとか書いているけど、そういう特別な日でもない限り目標を立てたりなんかしないし、もっと言えば目標を立ててそれを守り通すということは、なかなか難しいという感じもしている今日このごろ。

あまり難しいことは考えずに生きたいな、なんて思ってはいるのだけど、小難しいことをごちゃごちゃと考えるのが半ば人生の趣味、クセみたいになっている。

2015年の年末も、結局いつもと同じようなことをゴチャゴチャゴチャゴチャと考えていた。

共感してもらいたいだけだ

さて、年も開けてしまったけど、2015年はどんなことを行い、そして考えていたのだろうか、と振り返ってみる。

「ど」がつくほどプライベートなことは、今年からつけようと思っている紙の日記に書こうと思っている。そうすると、このブログで皆さんに言わなきゃいけないことはなんなのか。不特定多数(あるいは、見てくれるであろう特定の知り合い・友人たち)の皆さんと共有しておきたいことというのは、一体何なのだろうか、と考える。

そうすると、結局のところ、共感してもらいたいことを書く、今の思いを書く、ということが、できることのように思う。私の今年あったこととかを書いたところで、私のファンみたいな人が居ないかぎりは別に何の役にも立たないものであろうと思うが、もしかすると、私が私個人の「思い」をこうして少しでも言葉に書いて、インターネット上に載せることで、これを見た誰かが、「あぁ、私もこういう風に感じたことはあるよ」と思えるような結果が生まれるかもしれない。それは「共感」だ。

わたしは、共感してもらいたい。だからこうして、インターネット上に文章を書くのだ。その動作は、自分の伝えたいことを書いた便箋を瓶につめて、大きな海に流すような動作に似ている。いつの日か、誰かがこの文章を見て、何かを感じたらいいな、とかそんな淡い期待をこめて、わたしはキーボードを打っている。

「事実」と「感じること」の比率

今年起こったこと、というのを分類、整理してみるという作業はなかなか難しい。特に2015年という年はそうだったように思う。

なにしろ、正直な話最初の実感としては「漠然と過ぎていった」という感じ。いや、年々その感覚は強まっている。もっと若いころ(今も十分若いと信じていたい)は、今年はあれもあった、これもあった、なんていうことを日々思い出していたものだったし、仲間が周りにいて、みんな同じようなことをやっていて…っていう感じの日常を過ごしてた。

もっと具体的にいえば、中学・高校の時の友達にずーっと囲まれて、ゲームとかして過ごしていた毎日だった。

あれはあれで幸せだった。なんというか、「生きていることってなんだろう」みたいなことをあまり感じず、難しく考えず。その日あったことを、何というか・・・事実を事実としてとらえていた。それについてあまり深い解釈を加えるようなことをせず、ただひたすらに、その時あったことを楽しんでいた感じで、それが正しいとか間違っているとか、そんなことを考えずに過ごしていた。

ところが今は、自分の一挙手一投足について、だらだらだらだら・・・と考えて、歩みを止めてしまっている。

こうしてブログを書いているときすらそうだ。昔だったら、「去年はこんなことがあって、あんなことがあって、云々・・・」という風にまず事実を淡々と羅列して、「まあ総括すると◯◯でした!」とかなんとか、ともかく「事実」と「思ったこと」の割合は9:1ぐらいで、事実ベースでものごとを考えていた。

今は、事実として起こっていることが先ではない。思ったことベースだ。「思ったこと」と「事実」の割合は、いまたぶん8:2ぐらいで思ったことのほうが優先している。起きたこと云々ではなくて、自分の感情がどうなのか、ということをいちいちチェックしているのかもしれない。

現状には不満、未来どうしたいのか?

こうして書いていても、「具体的に何がどうなってそういう感情になっているのか」が、読者の皆さんにさっぱりわかっているような感じはない。つまりこれは、誰かの共感を得ることはない、単なる「個人的なメモ」にすぎない、ということになる。

しかもこのメモは、恐らく何年か後に自分が読み返す事になったとしても「この当時何を考えていたのだ?全然わからない」ということになりそうな気がする。いや、むしろ、それを望んでいるのかもしれない。

結局何がいいたいのかと言うと、「私は現状に大いに不満がある」ということだけだ。歩みを止めてみた時、何が、なのかはまだわからないが、今この感覚で、大いに不満がある。それは仕事なのかもしれないし、プライベート、あるいは他のなにか、なのかもしれない。とにかく、まだ魂を燃やして生きているという感じがしないのである。

ということをつらつら考えるに、おそらく2015年というのは、「私は現状に不満である」ということをじっくり考える年になった。いや、2015年のあいだじゅうそんなことを考えていたわけではなかったから、2015年12月末から1月の現在ぐらいまでに、考えた結果そうであった、ということかもしれない。とにかく今、現状にまだまだ満足していない。じゃあ今「現状」とは何なのか。どうしたいのか。それは、今この段階で全く見えていない。これを整理しなきゃいけない、と直感的に思う。

「戦い方シフト」

過去を振り返る時間というのは、長く生きれば長く生きるだけとらなきゃいけなくなってくる。だからこそ、振り返る過去のない若いうちに、なりたい自分のことを考えるようにしないといけない。未来だけを向いて生きていくには、過去はときに振り返らないほうが良かったりもする。けど、たぶん自分もこの歳(今年はついに30歳になる)になってみて、「戦い方」の変更を迫られてるんだろうな、という気はする。つまり、「過去を振り返らない」のではなく、「過去を振り返り、そして生かしていく」という、経験を活かした戦い方へのシフト、がうまくできるかどうか、という一年になるような気がする。

とりあえず今日は、もう10年目ぐらいになるかもしれない、中高の部活の仲間たちと鶴岡八幡宮(ここで初めて固有名詞がでるあたり、この文章にいかに「具体」がないかということでもある)に行ってくる。だから、2015年のまとめと2016年の抱負は、少し持ち越し。

きっと今日明日には、どうにかこうにか、書くことをするだろう。それはきっと、なんとか絞り出して「事実の羅列」を行うような文章だ。去年はあれをやった、これをやった。今年はあれをやる、これをやる。いまはまだ、その事実の羅列はむなしいだけだ。その事実の羅列がわたしの感情と、心情と一体化する日はくるのだろうか。わたしは、今年一年にやるであろう「事実の羅列」が、私の感情と一体化して、今年一年満足したなあ、よく生きたなあ、と思えるような年末が、もう一年後には訪れているであろうことを、願ってやまない。