続・のあろぐ

ゲーム、漫画、アニメで社会を豊かにしたいNoahの個人ブログ

星新一の思い出

はじめて自分で一冊読みきった小説は、5歳か6歳のときに留守番をしていたときに父親のを拝借して読んだ赤川次郎の『セーラー服と機関銃』だった。
星新一を読んだときはそれ以上のインパクトを感じた。確か小学3年生のときだったと思う。
そのあと、何冊も何冊も読んだ。当時通っていた塾に貸し出し図書コーナーのようなものがあり、そこで何冊も借りて読んだ。おそらくは、全ての星新一作品を読破したと思う。新潮文庫の黄緑の背表紙を見ると今でも不思議な感覚に陥る。
星新一の何がそんなに良かったかといえば、そのニヒルな世界観と、さくさく読める手軽さ、さらっとして知的な文体、落語のような秀逸なオチのつけ方、どれを取っても自分にとっては最高だった。
というわけで最近また読んでいる。Kindleで今は読める。星新一の夢想した時代に、また一歩近づいているのかもしれない。『ボッコちゃん』『きまぐれロボット』と読み進め、いまは『妄想銀行』を読んでいる。やはり今読んでも秀逸だ。子どもの時の僕はこれをどのように読んでいたのだろう。

そんなことを考えているうちに、ふと昔のことを思い出した。地元の箱根そば星新一の本を読みながらうどんを食べていた。母親は席を外していたように思う。小学4年生ぐらいのときのことだ。
向かいの席に中年から初老ぐらいだろうか、スーツを着た優しい紳士のような雰囲気の男が腰かけて、「こんにちは」と言った。その瞬間、この人は星新一かもしれない、と思った。小説についている顔写真よりは見た目若く見えたが、よく似ているように思った。
ただ、どう考えても本を読んでいる子どもにいきなり声をかける中年男性はあやしい人なので、当時の僕は何も返答せず、会釈のみ返した。
その後すぐ母親が戻ってきて、特段何も起こらなかったしその紳士もどこかに消えていた。

その何ヶ月か後に、星新一が亡くなったとニュースで見た。
あの紳士が星新一であった可能性はほぼゼロに等しいと思うが、もし星新一だったとしたら、そりゃ自分の書いた小説を子どもが夢中で読んでいたら、声のひとつもかけたくなるだろうな、とは思う。
なんか星新一でない可能性の高い人間に星新一への思いを馳せている気がするが、とにかく僕の中では星新一は偉大な存在であり、明らかに僕の人生観の一部(と、もしかしたら文体の一部)は、星新一の作品でできているのである。