続・のあろぐ

ゲーム、漫画、アニメで社会を豊かにしたいNoahの個人ブログ

「競馬」のゲーム性はどこにあるのか

12月25日といえば有馬記念の日、らしくて、今まで気にも留めていなかった競馬だが、このままやらないで一生を終えるのもつまらないな、と思い直して一回ぐらいやることにした。

で、やるだけではつまらないので、未経験者から見たときに競馬ってどんなゲームに映るのか、どういうところが面白いと感じるのか、ということを記録しようと思ったのでこんな記事を書く。

競馬といえばダビスタだが、今回はリアルなほうの競馬というゲームそのものについて。

わたしの競馬に対する前提知識

ほぼゼロ、と言ってもいい。

今まで競馬場に行ったこともないし、名前だけ知ってる馬はナリタブライアンディープインパクトだけ。敢えて言えば競馬ゲームをやったことがあるけど、それも実名が出てくるものはやったことがない。ゲーセンのメダルでやる競馬育成ゲームにハマったことがあるのと、『ソリティ馬』っていうこれも競走馬育成?とソリティアを混ぜたゲームをやったことがあるだけ。ちなみにソリティ馬は面白いので是非。昔レビューも書いた。

noah.hateblo.jp

話が少し脱線したが、そんなわけなので、馬券の買い方とかも3連単とか言う用語ぐらいしかわからなかった。

賭けることで生まれるゲーム性

さて、競馬といえばまあ一種のギャンブルなわけで、やっぱり競馬のゲーム性というとギャンブル性はついて回る。というわけで今回はちゃんとお金をかけてプレイ。

後段で述べるように、お金を賭けないでも多分たのしいこともあるのだが、お金を賭けると賭けないではやはり楽しみ方が違ってくるのだろう、と思う。

というのも、お金を多少なりともかけた瞬間に、そこに「思い入れ」が発生するからだ。賭けないで、そんなに馬にも興味のないわたしのような人間がレースを見るとどうなるか?

「まあ、どっちが勝ってもいいか、関係ないし」となるに決まっている。そう、「関係ないし」というのがポイントで、麻雀なりFXなり殆どのギャンブルに共通することだと思うのだが、金を賭けることでそこには「関係性」が生まれる

金銭を賭けることは、自分ゴトとしてレースを捉えるための儀式だ。このあたりは金銭でなくても実は代用可能なのかもしれないが、とにかく自分の一部になっているものをリスクに晒すことで、自分ゴトになると思われる。これが第一のゲーム性だ。ソシャゲなんかでも、このゲーム性をうまく利用していると思っているが、それはまた別の機会があれば述べたい。

ちなみに今回は総額5,000円しか賭けてないので期待しないでほしいが、これがもっと金額が大きくなるともっと自分ゴトになっていくかもしれない。

選択するというゲーム性

さて、競馬のゲーム性のもう一つはまさに「選択」にある。麻雀などでは、配られた牌を見て手に組み込み、一つを捨てる、また牌が配られる…というフローでゲームが構成されるが、これも取捨選択の繰り返しである。

ただ、競馬は一回のみのレース。その中でどの馬が勝つか、一発予想しないといけないのだ。

ただ、ここで、単に予想させるだけだと、「どうせ当たらんだろ」というような諦めのようなものが生まれてしまう可能性もある。これを防ぐためには、「こりゃ、俺がちゃんと選べば当たるんじゃないか、少なくとも当たる確率が上がるんじゃないか」という感覚を作り出すことが大事である。要するに「自分の実力次第で人より抜きん出ることができる」という不均衡性がこのゲームのポイントだ。

このような不均衡意識の醸成は様々なゲームで見られる。「この勝負運否天賦のゲームじゃない……おそらく愚図が落ちていく 勝つのは智略走り他人出し抜ける者」というセリフが『賭博黙示録カイジ』という漫画の限定ジャンケンというゲームのシーンで有名だが、まさにこういう要素がゲームをよりゲームらしくしているのである。

で、この選択をどうするか?というのが競馬のゲーム性の最大のウェイトを占めると言っても過言ではなさそうだった。競馬新聞とか、様々な予想がひしめき合い、その予想をすること自体がエンターテイメントとして成立しているわけである。

選択におけるストーリー性

選択には理由が必要で、その理由は様々なところに用意されている。例えば馬の年齢、種類、性格、性別、毛並み、血統、etcの要素もあるし、騎手がどのような人物かというのもポイントになる。

このような選択のための理由が様々あって、それを追っていくことは、なんとなくゲームキャラクター一人ひとりの物語を追っていくのに似ている。

ここまでまとめると、「賭けさせてゲームに否応なしに参加させる動機づくりをし、その報酬を得るためには選択を良くしないとならない。それは、自分自身の手によって勝ち取らなければならない。そのためには様々な情報収集をすることが不可避であり、その情報収集をしていくごとに、馬のことを知り、騎手のことを知っていくことになるため、『競馬』という物語に没入していく……」ざっくりいうとそんなフロー設計が、競馬というゲームには為されているような気がした。

これは、何かに似ていると思ったら、RPGそっくりなのだ。確かに金銭を賭けることはしないが、自分で情報収集をし、目標達成に近づいていくという過程で、様々な物語に触れていく……という構図がそっくりだと思う。

そして、いざレースへ

レースは観客にとっても、馬、騎手にとっても一回きりの体験となる。

今回ネットで購入して、競馬場には出向いていないが、中山競馬場には数万人の人が詰めかけていたそうで、やっぱり臨場感も一つのゲームの要素になっているのだろう。そこには当然ながら群衆の興奮という心理がはたらく。

で、いざ出走となると、まあこれがまた一瞬でレース自体は決まるわけなのだが、実況があったり、抜きつ抜かれつのレース展開があったりで、大変な盛り上がりとなり、フィナーレを迎える。

特に今回はサトノダイヤモンドという馬が序盤から中盤、終盤にかけてどんどんと差を縮め、最後は本当にハナ差という感じでトップをとった。あのあたりの「うわー最後までわからないぞ」という興奮感がやはりレースの醍醐味となる。

競馬の一連のフローを体験するまでは、競馬のレースがメインディッシュだと思っていたし、そういう側面もあると思う。ただ、今回改めて思ったのは、競馬のレースというのはゲームで言えばエンディングに近いということだ。参加者にとってすでに選択は終わっており、あとは結果発表の大舞台がレースにほかならないからだ。

で、今回自分が試してみたのは、ほぼ全く馬や騎手に関する前提知識なしで、名前のゴロとカンだけで選んでみた。つまり、競馬の一連の物語の要素なしでも、レースを楽しめるのかどうか。

これはやっぱり楽しめた。最初のゲーム性の要素で挙げたように、レースは賭けた瞬間に自分ゴトになっている。今回は11番のサトノダイヤモンドに賭けたが、どうしてもレース中、11番のゼッケンの馬がどこにいるのか目で追っかけてしまう自分がいる。この瞬間、すでに「どの馬が勝ってもいいや」という状態からは程遠く、「ひいき」が存在していることになり、ひいきがレースをしている以上、やっぱり応援せざるを得ない、注目せざるを得ないという構図になっている。

そしてその数万の「注目せざるを得ない」が集まった結果が競馬場の観客たちの歓声であり、ここにおいて競馬というゲームのフローが集大成を迎えているのは間違いない。こういう集大成的な要素を指してエンディングと表現してみた。

結構奥深いな、競馬

ここまで幾つかの点で競馬のよくできたゲーム性を述べてきたが、当然たかだか一回やった程度で競馬というゲームが理解できるほど甘くはなかったと思うが、やらないよりは全然やったほうが理解できたと思うし、大変勉強になった。

勉強になった上に一応ビギナーズラックで勝った馬券も少額ながら当たったんでお金も貰えて、なんとなくいい気分で本日を終えることができた。

また機会があればチャレンジしてみたいと思う。