続・のあろぐ

ゲーム、漫画、アニメで社会を豊かにしたいNoahの個人ブログ

2016年のテーマと抱負(また後ほど更新)

今年のテーマ:Memento Mori(死を想え)

明日死んでも後悔しないか。どうせ死ぬなら楽しんで。

今年一年やりきったなあ、と満足できる一年に。
自己指向!自分の意見はどうなのか

1.素朴で綺麗な言葉を使う

2.健康

3.切り替えを早くする

4.謙虚。成功を語らない、自慢しない

5.人から頼まれていないことをやらない

6.信用するのは行動だけ。信用されるのも行動だけ。

→ごめんとか、ありがとうとか、口ではなんとでも言える。行動のお返しは行動で払うしかない。

 

まだ違和感があるので、思いつくままに更新していく予定。

【駄文】新年に思うこと

2015年が終わり、2016年がやってきた。今年は申年だそうで。

こうしてはてなブログの編集画面を起動して、何を打とうか考えつつつらつらとキーボードを叩いている。気づけば1月1日ではなく、すでに1月2日になってしまっている。

3が日中には更新しよう、と決めたからこうしてブログをなんとか書いているけど、そういう特別な日でもない限り目標を立てたりなんかしないし、もっと言えば目標を立ててそれを守り通すということは、なかなか難しいという感じもしている今日このごろ。

あまり難しいことは考えずに生きたいな、なんて思ってはいるのだけど、小難しいことをごちゃごちゃと考えるのが半ば人生の趣味、クセみたいになっている。

2015年の年末も、結局いつもと同じようなことをゴチャゴチャゴチャゴチャと考えていた。

共感してもらいたいだけだ

さて、年も開けてしまったけど、2015年はどんなことを行い、そして考えていたのだろうか、と振り返ってみる。

「ど」がつくほどプライベートなことは、今年からつけようと思っている紙の日記に書こうと思っている。そうすると、このブログで皆さんに言わなきゃいけないことはなんなのか。不特定多数(あるいは、見てくれるであろう特定の知り合い・友人たち)の皆さんと共有しておきたいことというのは、一体何なのだろうか、と考える。

そうすると、結局のところ、共感してもらいたいことを書く、今の思いを書く、ということが、できることのように思う。私の今年あったこととかを書いたところで、私のファンみたいな人が居ないかぎりは別に何の役にも立たないものであろうと思うが、もしかすると、私が私個人の「思い」をこうして少しでも言葉に書いて、インターネット上に載せることで、これを見た誰かが、「あぁ、私もこういう風に感じたことはあるよ」と思えるような結果が生まれるかもしれない。それは「共感」だ。

わたしは、共感してもらいたい。だからこうして、インターネット上に文章を書くのだ。その動作は、自分の伝えたいことを書いた便箋を瓶につめて、大きな海に流すような動作に似ている。いつの日か、誰かがこの文章を見て、何かを感じたらいいな、とかそんな淡い期待をこめて、わたしはキーボードを打っている。

「事実」と「感じること」の比率

今年起こったこと、というのを分類、整理してみるという作業はなかなか難しい。特に2015年という年はそうだったように思う。

なにしろ、正直な話最初の実感としては「漠然と過ぎていった」という感じ。いや、年々その感覚は強まっている。もっと若いころ(今も十分若いと信じていたい)は、今年はあれもあった、これもあった、なんていうことを日々思い出していたものだったし、仲間が周りにいて、みんな同じようなことをやっていて…っていう感じの日常を過ごしてた。

もっと具体的にいえば、中学・高校の時の友達にずーっと囲まれて、ゲームとかして過ごしていた毎日だった。

あれはあれで幸せだった。なんというか、「生きていることってなんだろう」みたいなことをあまり感じず、難しく考えず。その日あったことを、何というか・・・事実を事実としてとらえていた。それについてあまり深い解釈を加えるようなことをせず、ただひたすらに、その時あったことを楽しんでいた感じで、それが正しいとか間違っているとか、そんなことを考えずに過ごしていた。

ところが今は、自分の一挙手一投足について、だらだらだらだら・・・と考えて、歩みを止めてしまっている。

こうしてブログを書いているときすらそうだ。昔だったら、「去年はこんなことがあって、あんなことがあって、云々・・・」という風にまず事実を淡々と羅列して、「まあ総括すると◯◯でした!」とかなんとか、ともかく「事実」と「思ったこと」の割合は9:1ぐらいで、事実ベースでものごとを考えていた。

今は、事実として起こっていることが先ではない。思ったことベースだ。「思ったこと」と「事実」の割合は、いまたぶん8:2ぐらいで思ったことのほうが優先している。起きたこと云々ではなくて、自分の感情がどうなのか、ということをいちいちチェックしているのかもしれない。

現状には不満、未来どうしたいのか?

こうして書いていても、「具体的に何がどうなってそういう感情になっているのか」が、読者の皆さんにさっぱりわかっているような感じはない。つまりこれは、誰かの共感を得ることはない、単なる「個人的なメモ」にすぎない、ということになる。

しかもこのメモは、恐らく何年か後に自分が読み返す事になったとしても「この当時何を考えていたのだ?全然わからない」ということになりそうな気がする。いや、むしろ、それを望んでいるのかもしれない。

結局何がいいたいのかと言うと、「私は現状に大いに不満がある」ということだけだ。歩みを止めてみた時、何が、なのかはまだわからないが、今この感覚で、大いに不満がある。それは仕事なのかもしれないし、プライベート、あるいは他のなにか、なのかもしれない。とにかく、まだ魂を燃やして生きているという感じがしないのである。

ということをつらつら考えるに、おそらく2015年というのは、「私は現状に不満である」ということをじっくり考える年になった。いや、2015年のあいだじゅうそんなことを考えていたわけではなかったから、2015年12月末から1月の現在ぐらいまでに、考えた結果そうであった、ということかもしれない。とにかく今、現状にまだまだ満足していない。じゃあ今「現状」とは何なのか。どうしたいのか。それは、今この段階で全く見えていない。これを整理しなきゃいけない、と直感的に思う。

「戦い方シフト」

過去を振り返る時間というのは、長く生きれば長く生きるだけとらなきゃいけなくなってくる。だからこそ、振り返る過去のない若いうちに、なりたい自分のことを考えるようにしないといけない。未来だけを向いて生きていくには、過去はときに振り返らないほうが良かったりもする。けど、たぶん自分もこの歳(今年はついに30歳になる)になってみて、「戦い方」の変更を迫られてるんだろうな、という気はする。つまり、「過去を振り返らない」のではなく、「過去を振り返り、そして生かしていく」という、経験を活かした戦い方へのシフト、がうまくできるかどうか、という一年になるような気がする。

とりあえず今日は、もう10年目ぐらいになるかもしれない、中高の部活の仲間たちと鶴岡八幡宮(ここで初めて固有名詞がでるあたり、この文章にいかに「具体」がないかということでもある)に行ってくる。だから、2015年のまとめと2016年の抱負は、少し持ち越し。

きっと今日明日には、どうにかこうにか、書くことをするだろう。それはきっと、なんとか絞り出して「事実の羅列」を行うような文章だ。去年はあれをやった、これをやった。今年はあれをやる、これをやる。いまはまだ、その事実の羅列はむなしいだけだ。その事実の羅列がわたしの感情と、心情と一体化する日はくるのだろうか。わたしは、今年一年にやるであろう「事実の羅列」が、私の感情と一体化して、今年一年満足したなあ、よく生きたなあ、と思えるような年末が、もう一年後には訪れているであろうことを、願ってやまない。

「いまどきの働き方」は変化しつつあるという話

ぼくはシェアハウスというか、友人と何人かで一軒家を借りてそこに住んでいます。

そこの同居人の後輩さんも交えて今日、ちょっと話をしました。話の中身としては、VRの話とかをしていたのですが、そこで話した内容の中でぼくが今日一番しみじみと興味深かった話は、「働き方」の話でした。

まず、同居人の方はIT企業に勤めながら、地方の古民家を活性化させるというWEBを使ったプロジェクトをほぼ趣味で、ご友人何人かとやっているそうです。

そしてぼくも、企業に勤めながら、趣味的にいろんなサイトの運営や戦略を考えるということをやっていたりします。

思い返すと、過去に出会った人は、自分の職業以外に、なにか自分の「サブプロジェクト」みたいなものを持っているケースが結構多いものだということに改めて気付かされました。

勘違いしてほしくないのは、ここでぼくは、「サブプロジェクトを持つことが素晴らしいから、みんなサブプロジェクトを持つべきだ」と主張する気はないということです。

むしろ、その逆と言うべきかもしれません。すなわち、「みんな本業に必ずしも満足していないのではないか」ということです。

製造業なんかでは、とっくのとうに聞く話ですが、製品のクオリティはもう上がるところまで上がってきてしまっていています。いくら努力しても、もはや製品的に他社を圧倒する存在にはなれない。携帯電話とかはもうほぼ完成したプロダクトになっていますし、例えば音楽プレイヤーやテレビみたいなものも、もはやなにか新しい機能をつければ売れる、みたいな世界でもなくなってきています。多少小難しくいえば、「もはや付けて意味のある付加価値がなくなってきている」のかもしれません。

その流れが実はITの世界にもだんだんと来ているのかもしれません。一昔前は、WEBサービス乱立の時代みたいなのもあったような気がするのですが、最近は(ぼくのアンテナが鈍ったせいもあるのかもしれませんが)目の醒めるようなWEBサービスって、あまりなくなってきたような気がしています。WEB世界も、「大体もう満足」みたいな世界に差し掛かってきていて、あとはもう細かいニッチなニーズを埋めるような作業になってきている、とも考えられます。

こうなってくると、まあ言うまでもなくつまらないです。人は目に見える成長や成果がないと、なかなかやる気になりませんし、自分の仕事一つで「何か世界が変わっている」みたいな実感は、もはや持てなくなってきています。かけた労力に対して、あまりに世界が動かなさすぎるのです。

そうすると何が起こるかというと、誰もが「自分の手触り感のある何か」を持ちたがる。小さな何かでいいから、自分で動かしていると実感を持てる何かが欲しいのです。それでみんな、サブプロジェクトみたいなものを持ち出すのです。ここで副業と言わないのは、そこで求められているのは、必ずしも金銭的な対価ではないからです。

そうやってみんな、満たされないものを埋めようとしている。

で、ここで「じゃあみんな仕事をやめてサブプロジェクトだけに専念すればいいじゃない」ということに思い当たるかもしれませんが、ことはそんなに単純でもない。

サブプロジェクトは、極めて小さいニッチなニーズを満たしていたり、あるいはニーズなんてそもそも考えていなかったりするので、基本的にお金が儲かっていないという人が大半でしょう。

ですから、大体の人は、「仕事で若干の満たされない思いを抱えているが、それは空いた時間に何か別のサブプロジェクトを動かすことで解消している。その代わり、生きていくためのお金は仕事で稼ぐ」というような状況になり、その状態が考えうる限り一番バランスの良い選択だったりする、というのが現状ではないかなあ、なんていうことをぼんやりと考えていました。だってサブプロジェクトでは稼げない。けど仕事をやっているだけでは満足できない、そんな現状です。ぶっちゃけ、そういうことをしていない人は、会社で働いていてもほとんど閉塞感しか感じていないみたいな人もいて、うつ病とかになる確率が結構高まるんじゃないかなと思っています。

よっぽどの金持ちとかヒモでないかぎりは、こうした感じに働いていくしかないです。この状況が変わるためには、どうすればいいのかってことで、色々な議論があるのかなと思います。例えば、何年後かにはほとんどの仕事が機械で代替できるようになってしまうそうですが、そうなったらまた状況が変わってくるかなあとか、不謹慎ですがドカンと一発、東京に大地震でも起きるとまったく別の価値観が幅をきかせたりするのかなあとも思います。

いずれにしても、もはや経済的なニーズはほとんどみんな満たされてきてしまっている。あとは、心の問題なのではないかという気がしています。そうなってくると、ゲームとか芸術とか、そっち方面に秀でている人のほうが活躍する場が増えてくるようにも思いますが、どうなのでしょうね?上のリンクでも見られるように、コンピュータに代替されにくい仕事のNo.1は、「レクリエーションセラピスト」だそうです。他の20位までのリストも、概ね心の問題みたいなものを助ける仕事が多いように思いますね。

と、まあとりとめのないことを考えていた今日でした。忘れないうちにダラダラと、覚え書き。

ジェイン・マクゴニガル氏講演まとめ②―マクゴニガル姉妹の「世界を変えて、美しく生きる方法」

2015年11月18日夜に渋谷・ヒカリエで行われた、ジェイン・マクゴニガルとケリー・マクゴニガル姉妹の講演。Tokyo Work Design Week(TWDW)というやつの一貫で行われたイベントです。

そのうち、ジェイン・マクゴニガル氏の講演についてのまとめ、続きです。

前回はこちら↓

noahp.hatenablog.com

さて、それではゲームの効果を享受するにはどうすればいいのでしょうか。どういうゲームでも良いのです。『パズドラ』でもいいですよ。なんでも良いので、5分間やってみてください。

ゲームをした後、実生活―例えば仕事の課題に取り組んだり、抜け出したい悪いクセについて考えてみて下さい。克服したい課題を、ゲームをした後のマインドセットで考えてみるのです。そうすると、驚くほどにポジティブな捉え方が出来ている自分に気づくはずです。非常に簡単な方法です。

脳を活性化する、4つの方法

ビデオゲームである必要すらありません!実生活で脳を活性化する方法は、200通り以上あります。そのうち、私の4つのお気に入りを公開しますね。

まず最初の方法は、メンタルの力を増やしたいとか、クリエイティブになりたいという時におすすめの方法です。手のひらを30秒間の間、上に向けてください。こうすると、考え方がオープンになり、よりクリエイティブになりやすいと言われています。わたし達の祖先は、ポジティブなことを考えているとき、手のひらを上に向けていました。逆に、拒否する時は手のひらは下に向いているのです。

脳は、手のひらを上にしていると新しいことを受け入れやすい状態になっているのです。実はゲームをしているときは、大体の場合において手は上に向いているでしょう?

2番めの方法は、「予測してみること」です。先読みをするのです。例えば、私の夫は今日は何色のシャツを着ているのだろう?とかです。そして予測をしたら、「さあ、合っているかしら」と、予測の答え合わせをしてみるのです。

例えば、次にケリーがプレゼンを行いますが、ケリーが何を話すのだろうとか。もしくは、そうですね、彼女が「ジェイン」という名前を講演中に何回言うか、予想してみましょうか。私は、2回言うと予想します。皆さんはどう思いますか?

予測してみてください。何だっていいのです。予測することで、脳を活性化させることができます。

3番目の方法は、「いつもと全く逆のやり方をしてみること」です。いつも右手で歯を磨くなら、左手で磨いてみる。後ろ向きに歩くのもいいですね。いつもの道とは逆の方向に行ってもいいです。

いつもと逆のことをするとき、脳は、より集中することがわかっています。脳の活性化が行われると、より時間がゆっくり感じられることがあります。集中しているときも、時間がゆっくり感じられるんですね。脳みそで感じる時間がゆっくりになることで、気持ちにもゆとりが生まれることでしょう。

4番目は、社会的なレジリエンス(回復力、耐久力)を増やすものです。お互いの社会的な関係を強化することができますよ。それは、何かキャッチボールのようなことをすることです。ケリーになにか投げてもらいましょう。(ケリーとキャッチボールを何回かして)このように、お互いに何かを投げ合ったりとかしているとき、もう一人の人が何をするか予測しています。このとき、お互いのことをシミュレーションするので、脳はお互いに鏡写しのように活性化していく効果があります。このようなとるに足らないキャッチボールでも、脳が活性化される効果があります。

こうしたことをしていくと、より活力をもって一日を過ごす事ができます。

今回出版された本の中には、様々な脳の活性化の方法が書いてあります。

 

スーパーベターになろう!

スーパーベターになろう!

 

 どういうふうにすれば、ゲーマーのマインドセットを持つことができるかについて、書いてある本なので、皆さん、ぜひ読んでみてくださいね。

 

ジェイン・マクゴニガル氏のプレゼンは以上です。

ジェイン・マクゴニガル氏講演まとめ①―マクゴニガル姉妹の「世界を変えて、美しく生きる方法」

2015年11月18日夜に渋谷・ヒカリエで行われた、ジェイン・マクゴニガルとケリー・マクゴニガル姉妹の講演。Tokyo Work Design Week(TWDW)というやつの一貫で行われたイベントです。

そのうち、ジェイン・マクゴニガル氏の講演について、ざっとまとめさせていただきます。なお、内容には意訳などを含みますので、「大体こんなことを言っていた」という感じで捉えていただけるとありがたいです。

なお、概要については以下のサイトに上がっています。

wired.jp

(内容ここから)

人は多くの時間をゲームに費やしている

ご紹介ありがとうございます。"Tokyo Work Design Week"ということをテーマに講演できるということは大変興味深いことです。デザインというのは、私は「どのように人を幸せにするか」という事だと思っています。

では、私自身を幸せにしているものについても少し紹介させてください。

現在、17億8千万人のゲーマーが、一日平均して1時間程度をゲームに費やしていると言われています。これはよく、費やしすぎだと言われていますが、そうでしょうか。

また、日本では3人に1人の人がゲームをプレイしているそうです。これは素晴らしいことだと私は思います。

また、日本人のうち30万人の方が日常的に『モンスターストライク』をプレイしています。今までに『モンスターストライク』に費やされた時間を累計すると、46,232年分の時間に相当するのです!これは、87,500人がフルタイムで労働している時間とほぼ同じです。87,500人というのは、Google社員のほぼ2倍にあたる人数ですよ。

毎年平均で、1人あたり350時間をゲームに費やしています。これは、フルタイムでの労働の約2ヶ月分にあたります。そう考えると、皆さん、「あたかも職業のように」ゲームをプレイしていると思いませんか?

以上のことを私は喜ばしい事だと思いますが、もしかすると皆さんには朗報に聞こえないかもしれません。ゲームにはネガティブな印象があるからです。私自身も、「ゲーマー」という単語にはあまりいい印象を持っていません。ネガティブな印象を与えるからです。

私はゲーマーという代わりに、"Super Empowered Hopeful Individuals" - という風に呼んでいます。これの意味するところは、ゲームをする人というのは、チャレンジが好きで、楽観的で、意欲が高く、失敗から学べるとわかっている人です。そして、他の人から助けを得られるということもわかっている人です。

(ゲームに夢中になっている人の写真を見せながら)これはゲームを楽しんでいる人の写真です。どうですか?何をそんなに興奮しているのだろうと心配になりますか?これらの写真は、自分が達成したことの大きさにびっくりしているのですよ。

ゲームをすると脳は活性化する

ところで、ゲームをしている時に脳はどのような活動をしているのでしょうか。これは脳のスキャンをした様子です。ゲームをしている人の脳を、スタンフォード大学MRI撮影をしたものなんですね。ゲームをしている時には、脳の血流が多くなりアクティブになる部分があります。ゲームをすると脳が活性化するのです。

特に活性化するのが、意欲に関する部分です。ゴールに向かって決意を持って取り組めるようになります。すべてのゲームは、ゴールを達成する事が目的です。常に、つぎのゴールに向けて走っている状態にあるんですね。

それから、チャレンジするために情報を多く、そして早く集めようとする脳の部分も活性化します。常にゲームをするときには、人は学んでいるのです。特に失敗から学びます。新しいスキル、あるいは戦術といったものを学んでいきます。

言うまでもなく、学校や仕事、健康のためにも、脳を活性化させることは非常に有用なことですから、そういったところでゲームは役に立つのです。

ゲームをどうやって現実に役立たせるか?

さて、先ほどお見せしたように、日本は社会としてゲームに対する準備が出来ている国だと思っています。ゲームのマインドセット(思考様式)を活性化することができるとすれば、それは日本人だと思っています。

93%の日本人が、仕事にエンゲージメントがない。つまり、楽観的でないと感じています。言い換えれば、仕事に意義を感じていないということです。情熱が不足している、と言ってもいいかもしれません。これにより、社会で26兆円のコストが発生しています。

また、日本人の51%の人が、「人生が成功するか否かは、大抵の場合、外部要因―つまり自分の意思や決定とは関係のないところで決まってしまう、自分たちの力の及ばないところで決定してしまう」と思っています。

ゲームでは、自分の行動できる範囲で成功するかどうかが決まっていますよね。このことを実際の生活でも取り入れられたら素晴らしいと思いませんか?

メンタルヘルス上の問題が、仕事に悪い影響があったと感じている人が84%もいるのです。ゲームフルなマインドセットを持つことが重要です。うつ病の時に活性化してしまう脳の部位が、ゲームをしているときには完全にシャットダウンしている事が分かっています。うつ病は難しい病気ですが、ゲームをしているとき、脳はうつ状態とは真逆の脳の働きをしているのです。そこで、私はこう言うのです。「遊びの反対は仕事ではない。無気力である」と。

私は良く、双子の妹のケリー・マクゴニガルと話して、ケリーから教えてもらったことを自分で作ったゲームに取り入れているのです。それをケリーに話すと、"I'm game!"と言われます。"I'm game!"とは「私も入れて!」というような意味合いで、極めてアメリカ的なスラングなんです。これは、ゲーマーのマインドセットを実生活に活かせるポジティブな言葉だと思います。

人を冒険やチャレンジに誘いたいときに使うのです。そうすると、やるわ!という代わりに、"I'm game!"と返ってきます。これこそが、ゲームが実際にはチャレンジであるという証拠なのです。ゲームをする人は、オープンマインドで、やる気があり、失敗することをいとわない、熱意を持ってやっていく人たちなのです。

ゲーマーのマインドセットを実生活に活かしていくというのは重要なことです。実生活にどのように取り入れるか、という問題に取り組むために、私は『superbetter』というゲームを作りました。このゲームのプレイヤーは50万人もいます。

ゲームフルなマインドセットを持つと何が起こるか。高い社会的な達成が得られます。ストレスにもっとより良く対処できます。うつ状態や不安が軽減されます。人との関係を、より親密にすることができます。そして、人生に意味を見いだせるようになるのです。

 

以下、②に続く。

noahp.hatenablog.com

過去の夢(暗い)

昨日、職場で「どうも自分は異動っぽいな」と感じる出来事があった。自分の会社では2~3年ごとに部署を異動することが割と普通である。部署が変わるということは、多かれ少なかれ環境が変わるということだ。それで不安だったのかもしれないが、昨日眠ったあとに、夢だかわからない何かをみた。夢と書いたが、映像にならないもやもやしたそれは、どちらかと言えば妄想に近いもので、過去に自分の意識が飛んでいた。

それは過去、新卒で今の会社に入ってからいろんなことを経験してきたときのモヤモヤ感、みたいな感じをもう一回リピートしているような夢だった。映像なしで感情だけが再度押し寄せてきた、という感じで、正直言ってかなり胸糞悪くなったのは事実。

その胸糞悪い感じをここにしたためることで自分が楽になろうとしているので普通の人は見ないほうが良いと思うという今回のエントリです。

新卒で入って「戦犯」と呼ばれた

新卒で今の会社に入ったとき、時はリーマン・ショック後の不況そのもので、ぼくが配属になった部署はいわゆる「戦犯」と呼ばれている部署だった。リーマン・ショックのあおりで「仕方なかった」部分もあったはずの損失の大部分の責任が、ぼくの配属された部署に集約された。

当時の部長は週1回の「反省会」のようなものに出席し、時には涙目になって帰ってくることもあった。当時の部長は交代したばかりだったので、その部長にも全く責任はないはずだが、とにかく部署としての責任を負わされて責め立てられていたようだった。かなり年のいった年長者で、部署で一番偉いはずの人が涙目になるまで怒られて帰ってくる姿は新卒のぼくにはとても衝撃的で、それだけでもかなり暗い気分になったのを思い出す。

ぼくはと言えば、当時期待にあふれて会社に入ったこともあって、入社してから程なくして生まれた感情は「なんじゃこりゃ」「こんなはずじゃない」だった。まあ多かれ少なかれ、会社に入った新卒というのは「自分の思ってたのと違う」という感情を抱くものだ、と今になって振り返れば思う。

しかし、今になって振り返っても当時の環境は結構酷かった、とも思う。詳しくは省略するが、組織内部は当然ギスギスしているし、責任は押し付け合い、まともな仕事はほとんどなく、仕事ができても誰にもノウハウがないため、また責任を押し付け合った。誰もまともな仕事の指導してくれる人がいない中で、ぼくの唯一と言っても良い仕事は、その日のニュースをまとめて文章に起こし、偉い人に提供するみたいな仕事だった。数行文章を書いては、先輩に数時間ほど嫌味を言われたり怒られたり(まあそれでもしっかり見てもらえたのだけは良かった)しながら、「誰からもツッコミが来ないような文章」の習熟につとめていた。

社内の他の同期はといえば、辛いことはありそうだけどそれなりには楽しそうに見えて、組織がギスギスしているということもないし、まともな仕事はあるしという状況で、一日一日を無為に過ごしているとしか思えなかった自分は、他の同期を羨ましく思うことしかできなかった。

あと、地味に辛かったのは、自分より圧倒的に他の同期のほうが優秀だったということ。みんなキラリと光る何かを持っていて、自分なんかより全然頑張っていて、目標を持っているように見えたし、人生楽しんでいる感じがすごくて、リア充とかそういう次元を超越してみんながとてもまぶしく見えた。この人達にはかなわないな、と思う人も何人もいた。

今思うと同期もそれなりに辛いことはあったと思うし、いわゆる「隣の花は赤い」というやつだとは思うのだが、客観的に見てもその当時のぼくの状況はつらいものだったらしく、今でもその部署の名前を出しただけで心底同情してくれる人が社内に多い。ただ、配属を決定したはずの人事からも「かわいそう」と言われた事があるのは腑に落ちない。

周りが敵としか思えなかった

一番つらかったのは、やはり殆どの人が、その部署に配属しているというだけで、「なにか良からぬことをやろうとしている奴ら」「戦犯」という風にみなしてきた事が一番つらかった。社内の他の部署に電話しても、部署名を名乗るだけでガラッと声が変わって、どんどん冷たくなって最後に電話を切るときには本当に暗澹とした気分になった。

当時の自分の見えている世界はとても狭くて、心ある人などこの会社にいないのではないか、と思えた。大学時代はかなり飄々としたキャラクターだったと自認している自分がどんどんと暗くなっていくのがわかった。暗くなっていくだけならいいのだが、あまりに人から冷たくされたもので、その冷たい社会が当時の自分の人生のすべてだったわけで、そのうち「社会のみんなは自分の敵である」という認識になった。

それまでは割と一生懸命に、人のためになりそうなことなら頑張ってきたつもりではあったが、敵とみなした相手への自分の対応というのは、とにかく笑ってやりすごす、ということだった。ああ、いいですね、それでいいじゃないですか、良いんですよ、好きにすれば。関心を装った無関心。参加を装った不参加。そう、「好きにしたら」というのが自分にとって最大の復讐だった。それじゃ失敗すると思うとか、あなたの進む先に落とし穴が見えているよ、と思っても、ニコニコ笑って口をつぐみ肯定した。関係ないもの。あなたのことを愛してないから、どうなったって別に構いませんよ。落とし穴に落ちれば良い。むしろ、落ちてくれと思った。敵だから。

今振り返ると、ぼくは「失敗すればいい」と思って、自分の意見をすべて封印し、とにかく無関心だったのだが、そのくせ体裁としてはニコニコしながら肯定しているように見えたので、部署内では比較的評判がよかった。非常に逆説的だが、新人がうるさいことを言わないほうが、ウケが良いという感じだったのだと思う。

そうやっていると、本当は心のなかにはストレスが溜まっていった。言いたいことは何も言わなかったし、会社の寮に帰ってきて、一人で布団を被って寝ていると、「一体自分は何をしてるんだろう?」みたいなみじめな気分になった。休日に何をしていたのか、未だに思い出せない。

そのくせ、形にならなくてももがいて、朝は5時半とかに起きてまあ英語とか勉強したりして、「なんとかならないものか」とは思っていた。そういう精神状態で勉強してみてもあまり一つ一つは長続きしなくて、正直今の段階ではあの努力はほとんど無駄だったな、と思えるのが少し哀しくはある。

そんなことがつぎの部署でも尾を引いて続いて、その時期に大学時代の恩師が亡くなったりとか、色々あって、「症状」は悪化した。でも、その時期にジェイン・マクゴニガルの「ゲームで世界を変える」という講演とかをTEDで見たりして、ようやく希望が見えるようになってきたというような感じ。

今は楽しいよ

まあそんな感じの過去を思い出して本当に気分が落ち込んだのだけど、今は本当に楽しくやっていると思う。上司にも恵まれ、それなりに今までやってきたことが生きる。ある程度好きな様にやらせても貰える。プライベートもとても充実している。

あれだけ人を敵視していたけど、今は「良くない」と思うことがあればそう言うし、人に失敗すればいいと思うこともほとんどない。比較的健全な悩み方をしているように思う。

何より、過去のことをこれぐらい冷静に振り返ることができるようになった、というのは、心の余裕ができてきたという証でもある。

今になって振り返ると、あれは何だったのだろう、と思う。けれど、今回異動かなあ、みたいなタイミングになって、また過去のことを思い出して不安になっているのだろうなあと。

また思い出すことがあったらどこかに吐き出さないと、たぶんやってられんな、とは思う。

まあ、とりあえずは今が楽しいので、この時間をちゃんと大切にしていきたいな、と思う次第で、現在。

【読書】「我」を張らない人づきあい(仏教対人心理学読本) 小池龍之介著

 読了。軽く感想などを。

「我」を張らない人づきあい (仏教対人心理学読本)

「我」を張らない人づきあい (仏教対人心理学読本)

 
  •  本書で通じて語られているのは「慢」という心について。
  • 「人からよく評価されたい」あるいは「人に嫌われたくない」という思いが強いがために、本心を隠していると心の奥底で満たされなくなってしまう。これは現代的な「対人関係の苦痛」である、と筆者は説く。
  • 自分を構成しているのは様々な「毒」である。その毒のことを「欲望(貪)」「怒り(瞋)」「無知(痴)」の三毒という。そして、「本当の自分をわかってほしい」と人が言う時、その衝動は「慢」という自己愛がそうさせるのである、という。この「慢」は厄介で、自分を愛して欲しい!という苦しみ=刺激を、人間はまるで快楽のように錯覚してしまい、次第に苦しむことがクセになり、思考の奴隷のような状態になってしまう。
  • では、この「慢」の心をしずめ、刺激の奴隷状態から自由にしてやるにはどうすればいいか。筆者は、心の情報処理プロセスを停止するトレーニングが有効であると説く。様々な刺激=苦しみに踊らされ、それを快楽に変換してしまっている自分のメカニズムに気づき、そこに発生している刺激を「現行犯逮捕」できるだけの集中力と観察力を養うことが肝要である、という。このために筆者は坐禅瞑想をすすめている。

一冊を通じて慢の心について解説し、その脱し方を書いた本。ただ、著者の他の作品に比べると、若干くどい部分があり、要点が分かりづらかった感じはある。とはいえ言ってることはわかる、という感じの本。

読書メーターの感想を見る限りでは、やっぱり「くどい」という感じが多かった。うむ、この内容が悪いわけではないが、ボリュームとしては20~30ページぐらいでまとめられそうだよね。まあそれだと本にならないから仕方ないかあ。