続・のあろぐ

ゲーム、漫画、アニメで社会を豊かにしたいNoahの個人ブログ

アドバイスに向き合ったとき人はどうなるのか?

最近、人生のうちでも選択を迫られる機会が多い。選択するときは自分の判断だけではなく、色々自分の考えてもみなかったような観点が出てくることがあるので、そういうのを求めて、人にアドバイスを貰うために相談するようなことがあります。

アドバイスは、あくまでアドバイスでしかない。決めるのは自分。それは動かないが、では、人からアドバイスという名の、「自分とは違った観点」を貰った時、それをどのように処理していくのが良いのだろうか……?

そんなことをきっかけに、人からアドバイスを貰った時に、どのように心が動いていくかということを少し考えてみたという話。

アドバイスをもらうと判断能力が微妙に狂う(こともある)

人のアドバイスの中には、「自分のためになると思えること」「自分のためになるとは思えないこと」の両方があると思うのです。あるいは、「自分のためになるかどうなのか、判断が今のところつかないこと」というカテゴリもあるかもしれない。

そうした時、本当だったら「自分のためになる」んだったらいい事教えてくれたなと思ってやればいいし、そうじゃなかったらやらなきゃいい。判断がつかないことなら、とりあえずそれは保留にしておいて自分で考えればいい。

ただ、人間の感情がそこに挟まれたとき、実はその判断能力すらも狂ってくることがあると思います。

すなわち、「アドバイスをされてしまった」というまさにそのことにおいて、例えば「あの人はああ言ってるけど実はこうなのではないか」と、単に心のなかで議論することが目的になってしまったり。言ってみれば「反抗心」みたいなのが心に「もや」をかけ始めてしまう。

これはちっちゃい子を考えてみるとわかりやすいかと思うんですが、子供がテレビゲームをやっていて、親に「そろそろゲームはやめにして宿題をやったら?前も宿題をやらずに怒られていたでしょう」と言われたとする。親がアドバイスをしてきたわけです(この場合、親のアドバイスはアドバイスを超えて命令になりがちなのだけど)。

そうすると、子供さんとしては、宿題をすると怒られなくなるわけだから、客観的に見て自分にとってメリットが多い選択だ、とわかるわけです。

ところが。親に言われたそのことによって、「命令された」「その命令に従うことはしゃくである」というような、謎のプライドみたいなものが瞬時に心のなかにわき起こってくることがあります。

その結果、子供の心のなかでは、まず「親の指示に従いたくない」という思いがムクムクと大きくなっていきます。そうすると、心の中で、それを処理しようとして、自分を納得させにかかり、あらゆる方法で「宿題をせずにゲームをしないほうが得である」という謎のロジックを組み立てにかかる、ということがあります。結果として、「いまやろうと思ってたのに!」などと子供が言って、逆に反抗してゲームをそのまま継続する、ということが起こりがちなんではないかなあと思います。

言うまでもないことですが、今の例ではアドバイスは親の得になることというよりは、子供の得になることであります。ならば、子供は自分のためになることならば、素直に聞いていればいい。ですが、アドバイスを受けたそのことを、子供の中では「命令」という風に捉えてしまい、反抗心が育ち、実際に反抗する。そうすると、子供は自分にとって損な選択肢を選んでしまうというわけです。これはある意味、反抗するがゆえの自爆行為とも捉えることができるかもしれません。だって反抗すると自分に損なわけですから。ああ、まあもはや、「命令してきた人間の感情を逆なでする」ということ自体が目的となってしまっているので、自分のほんとうの損得は関係なく、反抗するのかもしれません。

反抗心をどうすればいいのか?

これほど極端な例はおとなになるとなくなっていくものだ、とは思います。しかし、「忠言耳に逆らう」ということばもあるように、いいアドバイスになればなるほど、なんとなく反抗心が湧いてきてしまう、ということは人間の心理上、どうも消えないようです。

それに、大人の世界では「価値観」が大きく入ってくることがあります。そうなってくると、ぶっちゃけ、ほとんどあらゆることは、擁護できるロジックがたってしまうんですよね。だから、余計に面倒くさい。自分にとって得なはずのことでも、論理をこねくり回して、「自分にとってこれは損である、だからやらない!」というように、自分で自分をだましてしまい、結果としてしなくてもいい失敗に向かっていってしまうということが、多々起こるようにできているわけです。それは、もしかしたら「相手を信頼すると大変な事が起こるかもしれない」という、不安や恐怖心から、自分を防衛しようとする本能なのかもしれません。いやはや。

あと、おとなになると、「どうせ言っても聞かないだろうな」とかいう気持ちが周りの方に強くなってきてしまうので、アドバイスの量は極端に減っていきます。単に、アドバイスを聞いてくれなくて不快な思いをする人からは、離れればいいわけで、何もアドバイスを聞いてくれないから一生懸命にアドバイスをする、という人は親ぐらいのもんなわけですから。しかも、大人になればなるほど、親の経験したこともないような世界が増えてくるので、実際に親のアドバイスがあまり的を射ていないものになる場合もあるのが困ったところです。

というわけで、「いいアドバイスだと自分で判断したことを、反抗心なしで実行していく」ということは案外むずかしいのではないか、という話です。上で述べたように、いいアドバイスなはずのことを、自分の反抗心・あるいは自己防衛本能から、悪いアドバイスと変換して受け取ったり、謎の反抗をしてしまう、ということが起こるからです。

当然ながら、自分の得になるアドバイスであれば、それを素直に受け取り、実行すれば自分の得になるわけです。だったら、そのように自分の心をつくりかえていったほうがいいわけです。

このためには、自分をなるべく客観視してあげて、「無駄に反抗する心」を取り除き、「不安」や「不信」も取り除き、一番ピュアな気持ちで見つめたときに、本当に自分にとってプラスになり、メリットになることはなんなのか、を見つめていく必要があるんじゃないかなあ、と思います。

これは結構難しい精神修養ではあるのです。が、今後の人生で何回かアドバイスを受ける機会があることを考えると、自分の心をもっとまっさらにしておく、ということにはすごく価値があるんじゃないかな、なんて思います。頑固な老人になって一生を終える、なんてカッコ悪いですよね。