Noahと申します(3)
さて、前回、ジェイン・マクゴニガルとの出会いについてお話ししました。前回の記事はこちら↓
それで、わたしが最初にやったのは、日本でこうした「ゲームを利用して世の中を変える」という取り組みが、あるかどうかということでした。そのため、私はゲーミフィケーションについて調査を開始したのでした。ところが、調べてみると、ゲーミフィケーションに対する日本の理解は、なんとなく浅かった。当時はやっていたブラウザベースのソーシャルゲームの仕組み、遷移、バッジシステムなどを使って、主にWEBのエンゲージメントを高めよう、という、報酬システムとしてゲーミフィケーションが理解されていたのです。
しかし、私は明確にこれは違うと思っていました。ゲームのすごいところというのは、「ハマらせる力」というよりは、「夢中になる、幸せになるためのちから」という感じ。そもそも「力」ではなく「ちから」だと思ったのです。そういう意味では、あまりにゲーミフィケーションを過小評価される恐れがあるし、ゲームに対する悪いイメージが定着してしまう、と思いました。
ゲームのちからで世界を変えよう会議
そしてできたのが、「ゲームのちからで世界を変えよう会議」です。ジェイン・マクゴニガルの動画を見てから、一週間も経たないうちに、もう熱量だけで作った団体です。私ひとりの「団体」でした。主に、Facebookページと、WEBサイトで活動をし、ゲームが世界を変えていると思えること、ゲームを現実世界に応用している事例について紹介するというページを作ったのです。
この活動は、当時「ソーシャルゲームはすごい、だからこれのハマらせる仕組みを使って、WEBなどで没入感を高めていくんだ」というふうに認識されていたゲーミフィケーションの若干悪いイメージを変える、ということを狙っていました。
もう少し砕けた言い方をすれば、「ゲームのちから」というのは、たとえば人とのつながりであったり、豊かな経験、ポジティブマインド、その他もろもろのあらゆる幸せにつながるものであり、決して「人をはまらせる仕掛け」にとどまるものではない、という考え方だったのです。
そういった思いから作った「ゲームのちからで世界を変えよう会議」でまずはじめにやったことは、「ゲーミフィケーションはどうあるべきか」というイベントでした。
ゲームでビジネスを、そして世界を変える――「ゲームのちからで世界を変えよう会議 Offline Meeting Vol.1」速報レポート | ねとぽよ
団体を作ってから2ヵ月も経たないうちに、リクルートメディアテクノロジーラボさんなどにお声がけ・ご協力をいただき、実現したイベントです。意外にコンセプトがうけまして、多くの方からご支援をいただき、第1回イベントは大盛況。この時参加していた方の中には、今すでに起業され、かなり大きくなっている会社もあり、今振り返るととても有意義なイベントだったと思います。第2回イベントも、かなり好評で、FBページ自体も、何千ものいいね!をあつめることになります。
“中心にはおもてなしの心がある” 「もじぴったん」の中村氏も登壇 「ゲームのちからで世界を変えよう会議 Offline Meeting Vol.2」速報レポート | ねとぽよ
フロー理論とゲーミフィケーション
そういった中で、当時ライフネット生命で新規事業開発をしていた吉沢康弘氏と出会います。吉沢氏には、私が思うゲーミフィケーションの考え方をとても興味深く聴いていただきました。そして、その時吉沢氏が出してくれたアイデアは、「ゲーミフィケーションは、チクセントミハイの『フロー理論』と結びつくのではないか」ということでした。
「フロー理論」のことを知らない方もいらっしゃると思いますが、ざっくりいうと、「人がある対象への没入感をもち、夢中になり、最大限のパフォーマンスを発揮し、幸福感を感じるための理論」のことで、吉沢氏ご本人のこの記事が詳しいです。またいずれ、私自身がフロー理論について感じていることは記事にしようと思います。
そう、フロー理論の仕掛けこそが、私がゲーミフィケーションで目指していたイメージにとても近かったのです。
そこで、吉沢氏と共催で、ゲーミフィケーション×フロー理論をテーマにしたイベントを行いました。名付けて「ゲーミフィケーションワールドカフェ」。ゲームクリエイター、ビジネスマンの両方に参加していただき、両者の知見を交換するという大変意義深いイベントでした。その様子は、以下に収録されています。
もぐらゲームスの立ち上げへ
さて、フロー理論とゲーミフィケーションを結合できたところで、私の中に一つの「満足感」のようなものが生まれてきました。
ただ一方で、自分の中でもやもやが大きくなって行った時期でもありました。というのは、「ビジネス層には、なかなかゲームに対する理解が進まない」という問題があったのです。ビジネスマンには、「マリオ」と、「テトリス」ぐらいでゲームのちからを説明するのが限界でした。ただ、ゲームはもちろん様々な趣向をこらしたものがあり、もっと深く、どっぷりとはまり込めばおもしろいものはたくさんあったはずなのです。ただ、それをなかなか表に出せないことに、私の中ではどんどんとフラストレーションが溜まっていく状態になっていました。
そこで、私は「もう少し、ゲームに興味ある人達に対して、ゲームそのものを頑張って広めよう」と思うにいたります。特に、私はゲームクリエイター、それも、アマチュアのゲームクリエイターを応援したい、という強い動機を持っていました。ゲームクリエイターで、ゲームを開発している方は、かなり表現したいものを持っておられる方が多く、かなり面白いゲームがたくさん眠っていると思いました。個人開発者や大会社ではない会社組織で作ったようなゲームのことを「インディゲーム」と呼びますが、そういったインディゲームを対象として、隠れた名作ゲームや、ゲームクリエイターの想いにスポットライトをあてて支援していこう。
そういう野望が、「もぐらゲームス」の活動につながっていくのでした。さて、自己紹介編はもう少しだけ続きます。次回はその活動について、お話したいと思います。今回もおつきあいありがとうございました。
ジェイン・マクゴニガルの本です↓
次回はこちら↓
Noahと申します(2)
前回の続きです。前回はこちら。
保守環境でカルチャーショックを受ける
リーマンショック直後に入社式を迎えた私ですが、ここで大きなカルチャーショックに遭遇します。
コンテンツ、ゲームに興味ある人が全くいない……
職場でゲームや漫画、アニメを見ている人がほとんどいない。「ニコニコ動画って何?」と20代前半の人にすら聞かれる。いわんやそれ以上の世代をや。コンテンツだけではなく、当時同期でスマートフォンを持っている人がほとんどおらず、持ってるだけで結構珍しがられるなど、アーリーアダプターが全くいない保守的文化に放り込まれます。当時2009年です。今までは大学でもあえて新興のゼミに所属し1期生として体制を整えるなどわりと新しい物好きだった私、大ピンチです。
さらに、部署はリーマンショックで大損失を出した戦犯と言われる部署で、毎日とてもギスギスしている。完全ブラックってこともないんですが、まあ、同期や先輩からは「1年目からこんな部署に行くなんてかわいそう」と言われる始末で、今から考えてもかなりストレスフルな部署だったと思います。
こうした抑圧された環境の中で、学ぶことも多かった(特に失敗した組織がどのように壊滅&復興するかというプロセスは本気で学ぶ点が多かった)のですが、やっぱり学生時代からの「なんらかの形でゲームに携わっていたい」という気持ちが、逆にふつふつと盛り上がってきます。
恩師の急死
そんな最中、ある出来事が起こります。大学の恩師の急死です。享年38歳。あまりにも早すぎる死でした。スポーツマンタイプ、というか体育会系だった先生がそんなに早く亡くなるとは思っておらず、私はゼミの1期生のゼミ長として、大学卒業した後も飲み会とかに参加させてもらっていたし、「大学に戻りたかったらいつでも戻ってきなよ~」なんて言われてかわいがってもらっていたので、先生の死はショックでした。涙が止まりませんでした。
そんな中、「人の人生って短いんだな」ということを切に感じました。そして、「やっぱり、やりたいことをやろう!早くせねば!」という気持ちが再度盛り上がってきます。生き急ぐというやつです。
しかし、何をしたらいいんだか見当もつかない。転職も検討はしたものの、なにか違う。仕事は仕事でちゃんとやりたいし、周りの同期は優秀だから学ぶことが多い。そもそも私のやりたいことはモヤモヤしていて、どれも、なにか違う……としか思えない日々。
そこで、人と会ってみたり、なんらかの勉強会に出てみたりと活動はしていたのですが、なかなか何かに出会うということもなく過ぎていく。
「ゲームは人を幸せにする」
しかし、英語の勉強になるかと思って見始めたTEDで、とてもいい出会いがありました。「ゲームは人間を幸せにするのに役立つ。決して無駄なんかじゃない」そう力説するジェイン・マクゴニガル氏の動画との出会いです。
これだ。見たときに直感的に思いました。私はずっとモヤモヤしたものを抱えてきました。周囲の人の中には「ゲームは無駄なもの、役に立たない」という風に感じている人たちがかなり多くいました。私にとってのゲームは、MMORPGで得た友人はもちろん、ゲームの楽しみ方や、いかに効率よくゲームに勝つか、社会の縮図としてのゲーム、などなど、「今の自分はゲームなしにはここまで成長していない」と言い切れるほどゲームは役に立っていると感じていました。なので、ジェイン・マクゴニガル氏の考え方は頭にすっと入ってきたし、まさに自分がモヤモヤして言えなかったことを言ってくれた人だ!と思い、感動が止まりませんでした。いや、ほんとに。
さて、そこから今の活動にどうつながっていくのか?ということは、また次回お話しします。
次回はこちら。
Noahと申します
Noahです。
この度、「ブログを毎日書こう、書けなかったら罰ゲーム、書けたらいいことあるよ」という感じのゲームに参加させて頂くことになりました。期間は10/31までの予定です。
具体的なルールについては、後日紹介して他の参加者の方へのリンクでも貼っておきます。
今回は初回でもあるので、自己紹介を簡単に書いておこうと思います。
ゲームにどっぷり浸かってそのノリでずっと生きてきた
もともとゲームが大好きでして、子供の時から様々なゲームをやってきました。
ゲーマーには2種類いまして、「いろんなゲームを満遍なくやるタイプ」と、「好きなゲームにかなり没頭してしまう」というタイプがいると思っています。
わたしはまさに後者のタイプ。そこそこいろんなゲームをやっていると思いますが、中学、高校、大学、社会人と、MMORPG『リネージュ』というゲームを一万時間ほどプレイしたと思います。
一万時間の法則というのがあるそうで、人は一万時間をかけて何かに取り組むとそのプロになれるそうですが、わたしはプロのネットゲーマーになれたかというと、なれてない可能性が高いです。このゲームでどんなことをやっていたのか、何を学んだのか、というのは話せば長いのですが、これはまた別の機会にします。
ゲームばっかりやってて高3春時点で偏差値が40しかなかったのですが、ネットゲームのレベル上げの手法を大学受験勉強に取り入れることで偏差値を秋までの半年で70ちょいまで上げ、志望校にはなんとかA判定を出しつつ合格、大学受験を乗り切りました。
ゲームと経営
大学時代には(ネットゲームやりながら)経営学と金融政策について専攻していました。ゲームが好きな特性を活かして、主に任天堂について調査を行っていました。当時はDS、Wiiの全盛期で、会社四季報には任天堂は「わが世の春」と表記されていたのをよく覚えています。
ゲーム業界というのは、経営的に見てかなり面白い題材となっていると感じていました。というのは、
①ゲームはニーズが見えにくく、「面白さ」という不確定なものを売っているビジネスであるがゆえに、製品に関して絶えず新しい遊びが生み出されている、極めてイノベーティブな業界である
②ゲーム単体ではなく、ソフトウェアとハードウェア(ゲーム機など)の組み合わせによりビジネスを行っている業界であり、「ネットワーク外部性」という効果を重視する必要がある
③クリエイターの才能や個性を発揮させなければ面白いゲームが発現せず、カリスマと呼ばれるクリエイターや経営者がとても多い
④ゲームの面白さは単に描画性能などの技術力を向上させることとは別問題であり、ゲームの構造について考える必要があり、「どうやって面白くするか、人をモチベートするか」というノウハウは、他のことに転用するとき極めて有用な効果を発揮するであろう
などなどの魅力があるからです。
わたし自身は、大学の卒論では、キャラクターやゲームの仕組みなどのコンテンツを各企業、特に任天堂とスクウェア・エニックス等の大企業がどのように活用しているか、ということをテーマに執筆を行いました。
具体的には、ファミコン時代から現代まで、各社の出したゲームタイトルを全部リストにし、その内容についてわかる範囲で、「続編(マリオ2など)」「キャラクター資産の活用(マリオテニスなど)」「完全新規タイトル」などにすべてのタイトルを分類しました。すごく大変でした。
どのゲームが売れるかわからないなかで、過去に売れたコンテンツをいかに活用するかは非常に重要な視点になります。こうした整理を通じて、各企業が年代ごとにどのような姿勢でコンテンツ資産を活用し、または生み出しているかを体感しながら論文を書いたのですが、肝心のデータはどっか行きました。たぶん大学にはある…?
そして就職へ
こうしたことを行いつつ、上にも挙げた某ゲーム会社に内定寸前まで行ったのですが、親に猛反対をくらいます。
ここでは、どんな形で反対をされたかは伏せますが、当時はちょっとこれを乗り越えて就職するのが無理だと思うような内容でした。
ちなみに親の反対理由は「戦争になったらゲームどころではないから」という理由で、当時もおお…戦争…なるほど……?って感じであったのですが、なかなか押し切って就職することができなかったのは当時のわたしの弱さでしたねぇ。一番難しいのは理詰めでの話し合いのきかない相手をいかに納得させるかだなあというのをしみじみ感じます。
といった感じでゲーム会社ではない会社に就職することになったのですが、文字数も長くなってきたので一旦ここで切って、今やってる活動などの続きは明日にします。
続きはこちら。
最近読みたい本です↓
桜井政博のゲームを作って思うこと2<桜井政博のゲームを作って思うこと> (ファミ通Books)
- 作者: 桜井政博
- 出版社/メーカー: KADOKAWA・DWANGO / エンターブレイン
- 発売日: 2015/06/25
- メディア: Kindle版
- この商品を含むブログを見る
桜井政博のゲームを遊んで思うこと2<桜井政博のゲームを遊んで思うこと> (ファミ通Books)
- 作者: 桜井政博
- 出版社/メーカー: KADOKAWA・DWANGO / エンターブレイン
- 発売日: 2015/06/25
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「成功のための式」に関するメモ
昨日ランチでちょっと話題になったこと
「チャレンジ回数×成功確率=成功(回数)」という式について
論点1
・「成功」の定義は人によって違うはずだが、あまりにも成功を定義するためにかける時間が少ない。
・自分の感情を羅針盤にすべき
・感覚的には成功を定義できれば半分の作業が終了している
論点2
・成功確率を改善せずに、とにかくチャレンジするのは愚の極みである一方で、「5回やれば9割の確率で成功するのに、4回でやめてしまうなどチャレンジ回数が少なくなるケースもある」。
・ただ、特に大企業は余裕があるので、前者の「とにかくチャレンジ」が多くなる。スタートアップなどでは少ない残資金でかならず当てるプレッシャーがかかるので、成功確率を改善するインセンティブが高い。
論点3
・チャレンジ回数を重ねているとき、仮にPDCAサイクルが回っていれば、成功確率は改善する。一方、PDCAしていなければ、成功確率は不変である。
・PDCAは「問題を解き、答え合わせをし、間違い直しをして、もう一回解いてみる」というプロセス
他にも色々この式で言えることはありそう。忘れないうちにメモ(受験勉強との関連の話やゲーミフィケーションとの関連も出てたけど忘れた・・・)
ブログを時々書いていきたい
最近はポケモンGOを一生懸命やっています。
どうしてもブログを書こうとすると、まとまったことでうまいことを書かなきゃ書かなきゃという思いがあるのですが、一方で同じようにネットで大公開しているTwitterでは適当なことばかり書き散らしているわけです。
ならば長文になりそうな連ツイとかは別にTwitterじゃなくてもいいんじゃないか?という感じもするので、ブログの方も気軽に更新していこうかなと思っています。よろしくお願いします。
なぜブログを書くのが面倒なのか
ちょっと思ったのが、Twitterだと気軽にかけるのにブログだとちょっと身構えてしまうっていう現象って、どのへんから起こるものなんだろう、ということなんですよね。
まず第一に、Twitterは140文字しか書けないということもあって、「論理展開していく」ということが難しいです。多分3~4文ぐらいしか書けないし、その辺りがブログで記事を書くのをためらわせるのかもしれませんね。
あと、直ぐに反応が来ないですよね。しかも軽めの反応がない。Twitterとかだと、投稿すればすぐいいね!がつくので、投稿するインセンティブになっているのかもしれません。この辺はFacebookでも共通ですよね。
それから長文を書くときはどうしてもキーボードがいるなあ、と思ってしまって、スマホで気軽にブログを書こうという感じではなくなってしまう点もありますね。
ということは、これらをうまく解消したブログサービスがあれば一定の強みはあるのかもしれないなあ、と思うのですが、そこまでしてブログで文章を書く意味がありませんね。
ブログで文章を書きたいという話だったはずがいつの間にかブログで文章を書きづらい理由という話になってしまった……
余談
あと最近Yogibo Maxというクッションを買って家に置いたのですが、マジで快適。これの上に寝てニコニコでアニメとかを見てくつろぐともう完全に極楽でしかないですね。
色はいろいろあって、自分はライムグリーンにしました。人をダメにするソファ(クッション)みたいなもので、あれよりも大きくてへたりが少ないそうなのでとてもよさそうです。
生活のなかの資本装備率を上げたいという話
資本装備率
しほんそうびりつ
capital equipment ratio労働量に対する資本量の比率。正しくは労働の資本装備率,あるいは資本集約度という。資本装備率は個別企業としても,また産業別にも,あるいは国民経済全体としても計測されるが,いずれにせよ雇用労働者数を L ,資本設備額を Kとすれば,この比率は K/Lとして表わされる。
時々思い出したようにブログを書いてみる。
生活の改善
初っ端から難しいことを書きましたが、要するに「生活の効率を上げたい」ということだったりします。
パフォーマンスというのは「時間」×「生産性」だと思っています。
昔、母校の高校で補習の講師とかをやっていたのですが、そこでもぼくはこの話ばかりしていました。
時間は平等に1日24時間が与えられていますが、生産性は平等ではないのです。
ここでいう生産性とは、1時間かけた時に生み出される成果のことです。人間、なるべくなら時間をかけずに成果をあげたいじゃないですか。ぼくは生来なまけもの気質なので、「時間」×「生産性」で成果が出るのであれば、どちらかと言うと生産性の上昇に特化していきたいと思うタイプです。
ゲームと改善
割とゲームなどでもそれが出ていて、というか、むしろゲームで養われた癖なのかもしれません。ゲームでは、少し装備を変えたり探索の方法を変えるだけで、劇的に経験値を稼げる量とか、ゲーム内でお金を稼げる量が変わってきたりするのです。ぼくはこの改善をやっていくのが、もう心から楽しすぎてゲームをやっていました。
完全に余談ですが、ゲームのブログを見ていると、結構な割合でこうした改善を楽しんでやっているような気がするんですよね。中にはどのくらい効率が改善したのかを定量的に計測したりとか、ゲーム界隈には改善することがこの上なく大好き、みたいな人がたくさんいます。ゲームと現実の境目をなるべくなくしていくと、こうした人達が改善について一生懸命考えてくれるので非常に良いと思うんですよね。こういう気質をかなり持って現実に出てきている方に、勝間和代さんがいらっしゃると思います。あの方も相当な改善オタクですよね。
社会人と改善
さて、ここからが本題なのですが、社会人として生活をしていると、とかく時間がありません(ブログ書いてる暇はあるのにね)。そこで、「仕事の時間を短縮しつつアウトプットを変えない」とか、「プライベートの中でも雑事に追われる時間を減らし、本当にしたいことに集中する」という観点が非常に重要になってきます。
または、こういうこともあります。仕事を深夜までやっていると、どうしても疲れが週末に溜まってしまい、土日のうち半日ぐらいは寝るだけになったりとか、経験ありませんか?
こうしたことを減らしていけば、かなり自分の時間が増えるはずです。そのために金は惜しんではいけません。
まず、休息の改善をはかっています。とりあえず、入浴が疲労を回復するポイントになっているので、それを改善したいと思いました。時間あたりの疲労回復度をあげたい、ということですね。
そこで、入浴剤をとりあえず導入し、お風呂環境の改善を図っています。
ほかにもせんべい布団で寝ていたのを結構いいベッドにしたりとかやってるのですが、最近はちょっと行き詰まり中です。
お金をかけても、なかなか時間を短縮したり、生産性を上げられるような投資が見つからないのです・・・今の日本社会と似ていますね。
ということで最近購入検討してるのはルンバぐらいなのですが、他にこういうのがあったらより生産性があがるよ、みたいなもの、ありますかね?
ちなみに一番直近で買ってみたのはマウスパッドです。滑りがいいやつにして、手首が疲れないように。
というのが最近の悩みごとだったよ、という話でした。
運とかオカルト的な話
今日髪切りに行った時、美容師さんとツキとか流れとか運とかまあオカルト的な話になった。
自分はそういう「運を引き寄せる力」だの、「場所」だのっていうのを霊的な意味で信じているわけではないんだけど、例えばパワースポット一つとっても、まだ(ここ重要)人間には理解できない何かが働いた結果、そこがパワースポットとして運気を上げてくれるポイントになっている、と思うわけですよね。
要するに、何かあるんだと思うわけですよ。あんまり、そういうのばかりに傾倒してもいけないけど、例えば麻雀打ってても、ある席の人がつきまくることがあって、あれは多分全自動とはいえ牌の偏り、みたいなものが生まれるからなんじゃないかと思っているんだけど、それと同じようなことが世の中には沢山あるんじゃないかな、とか思うわけで。
逆もありきで。
先日、引越し先を探していて物件を見に行った時に、築30年ぐらいかな、そこそこ古いアパートというかマンションを見に行ったんです。
そこ、結構家賃が安くて。不動産仲介業者も「この広さにしてはワンランク安い」「もっと家賃を高く設定できる」とか言うわけです。でも家主さんはどうやら家賃をある程度下げてでも早く入居してくれる人を探していたと。
あれ?なんか変だな?と思いますよね。変だと思うと止まらなくてそれが加速しだすというか。どうもこの部屋、リフォームして確かに表面上綺麗になってるけど、やっぱりところどころ古い。なんか微妙だ。
事故物件じゃないですよね?と何度も聞いたし、大島てるっていう事故物件サイトとか見て調べたけど、別に事故物件ではない。でも、なんだかすごく嫌な雰囲気がするわけですよ。
窓を開けて外を見る。すると神社が見える。夜に見に行ったので、薄ぼんやりと神社のようなものに灯りがついていて、どことなく薄気味悪い感じ。んー?なんか変な違和感があるな、と思って違う部屋の違う窓を開ける。
そこもまた神社がある。
つまり、このアパートは神社にわりと囲まれているのか。そう気づいた時にすごく微妙な雰囲気になって外へ出た。
一緒に見に来ていた友人はオカルトとか一切信じない系と自分で言っていたけど、「いや、あそこはやめといたほうがいいんじゃない」とボソリ。いて十数分で嫌な気分になるんだから、住めないよ、と。自分もそう思った。
で、あとで気になって、あの神社、何かいわれがあるのか?と思って調べてみたんですよね。
そしたらね、祀っているものがね、
貧乏神を祀ってたんだよね。
なんでそんなものを祀っていたのか、さっぱりわからない(※さらに気になって調べてみたところ、願掛けをして貧乏神を一旦家に招き入れ、ある日になったら追い出すと貧乏神と縁が切れると言われているらしい。それは劇薬注意だわ……。)んだけど、なんとなく得体が知れないのでやめてしまった。
まあ、わからないんですけど、人間って色々カンが働いたりとかするときってなんか理由があったりするもんなので、直感みたいなものにはある程度従って生きたらいいんじゃないかな、とは思うわけですね。
人工知能が知的労働を肩代わりしてくれたら、最後に残るのはそういう動物的な直感というか、得体のしれないものを感じ取るちからじゃないのかなあ。良いものも、悪いものもね。
だから僕はわりと縁起とかそういうのは気にしちゃうタイプですね。そんな話でした。